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2008年11月22日(土) 13時02分

【さよなら0系新幹線 44年の軌跡と5つの物語】(1)日本鉄道史上最高の名車のラストラン産経新聞

 午前6時8分、JR新大阪駅。団子鼻のような丸みを帯びた先頭車両が、一番端の20番線ホームに滑り込んだ。11月末で定期運転を終える初代新幹線0系の「こだま629号」。まだ薄暗い早朝にもかかわらず集まった鉄道ファンらが、名残を惜しむように、一斉にフラッシュをたいた。

 昭和39年に開発された0系は、戦後日本の高度成長を象徴する存在だ。白地に青の塗装、航空機をイメージしたという流線形の先頭部。当時としては斬新なこの「顔」が、世界で初めて時速200キロ以上の営業運転を実現する鍵になった。

 「ラストラン直前はきっと込み合う。今ならすいているから、ゆっくり乗れると思いました」。有給休暇を取って東京から訪れたという30代の男性会社員は、こう言うと足早に「夢の超特急」へと乗り込んだ。

 初代新幹線「0系」は、約20年間にわたって改良を重ねながら、計3216両が製造された。その後昭和60年に、初のフルモデルチェンジ車「100系」、平成9年には世界最速の時速300キロを実現した「500系」がそれぞれ登場。さらに最新の「N700系」など、続々と新型車両が製造されている。

 だが、外観や性能は変わっても、基本コンセプトや設計は0系と同じ哲学に貫かれている。その完成度の高さからしばしば「日本鉄道史上最高の名車」と言われるゆえんだ。

 午前8時25分、東広島駅。停車中の0系の車内から、鉄道ファンが次々とホームに飛び出してカメラを構えた。その直後、後続の「のぞみ」が轟音とともに、0系のすぐ脇を走り抜けた。時間にしてわずか10秒足らず。過去と未来が交錯した瞬間だった。(原川真太郎)

      ◇

 【第1話】

 「0系新幹線は運転もメンテナンスもしやすいと、現場から評判が良かったんです」

 試作車両から0系の設計に携わった島隆さん(77)は振り返る。

 旧国鉄に入って3年目の昭和33年4月。当時26歳の若き技術者に託されたのは、台車の設計という大役だった。いかに車体を安定させ、210キロという超高速運転に耐えられるようにするか−。

 ヒントになったのは、旧海軍の戦闘機「零戦」。零戦は開発段階で空中分解が相次いだが、その原因は高速で飛ぶ際に起こる尾翼の振動だったことが分かっていた。

 0系の試作車両も試験走行で激しい蛇行に悩まされていた。旧海軍出身の技術者からこの話を聞かされた島さんは、即座に応用を決めたという。

 こうして生まれた「DT200台車」は「下手に設計変更していじれば悪くなる」と評価されるほどの名台車となった。なかでも危険な振動を防ぐ「IS式軸箱支持装置」は完成度が高く、島さんの頭文字「S」から名付けられた。

 「未知の技術に飛びつかず、確立した技術をシステム的にまとめ上げる。それが新幹線開発の基本でした。これは私の父が言い続けてきたことです」

 そんな哲学を島さんに植え込んだ父、秀雄氏は蒸気機関車D51(デゴイチ)をはじめ数々の名車両を設計し、当時は技術職のトップとして新幹線開発を指揮していた。祖父の安次郎氏は戦時中、新幹線の前身となる弾丸列車計画(東京−下関間)を進めた。0系は島家の悲願の結実なのだ。

 思い出のつまった0系の引退。島さんは「確かに寂しい」と話しつつ、意外な言葉を継いだ。「ですが、もっと早く次世代車両の開発に入るべきでした」

 当初は旧国鉄内部からでさえ実現が疑問視されてきた夢の超特急は、39年10月の開業から約20年間を0系だけが担っていた。乗客の事故死者ゼロという高い安全性を保ったが故に、より速く、より快適な車両を造りたいという技術者たちの思いはなかなか実現しなかった。

 島さんは平成14年から6年間「台湾高速鉄路」に駐在し、顧問として台湾新幹線の開業に貢献した。0系で培われた技術は40年以上の歳月を経て、海外に羽ばたいている。

 【第2話】

 カンカンカン。町工場に金属音が小気味よく響く。0系新幹線の先頭部分にあたる「顔」は、ハンマー1本の手作業によって生み出された。

 山口県下松市の山下清登(きよと)さん(73)が山下組を創業したのは、昭和38年9月。自動車修理工として磨いた板金加工の腕を見込まれ、日立製作所から0系の顔の製造を依頼された。

 山下さんの技術は「打ち出し加工」と呼ばれる。薄い金属板をハンマーで何万回もたたき、微妙な丸みをつけていく。ハンマーをぴたりと当て、跳ね返り具合や音を聞き分けて微調整できるようになるまで、10年は要する匠の技である。

 そんな山下さんでも当時、210キロという速度は想像できなかった。図面を見せられ従来の列車と全然違う流線形に度肝を抜かれた。しかし、できない仕事ではないとも考えた。25枚ほどの板に分割し、寸法を合わせながら骨組みに沿って溶接する方法で、約1カ月かけ完成させたという。

 昭和39年10月1日。東海道新幹線の開業1番列車となった「ひかり1号」には、山下さんが顔を手がけた車両が使われた。くす玉が割られ東京駅9番ホームから滑り出していく雄姿を、山下さんは自宅のテレビで見守った。

 「溶接が外れでもして事故が起きたらどうしようかと不安でした。無事走り出したときは、涙が出そうになった…。感無量でした」

 約20年間で製造した0系の顔は70両以上。納品後に間近で見る機会はほとんどなかったが、先月、JR西日本が鉄道記念物に指定した0系と再会した。丸い顔を見て「久しぶりだな。元気じゃったか」と心の内でつぶやいたという。

 時代は移り、山下組は山下工業所と名を変えた。最新型新幹線のN700系やリニアモーターカーの実験車両をはじめ、世界中の特急列車の部品を受注する。

 しかしそのほとんどは当時と変わらない打ち出し加工で、職人8人が造り出す。金型によるプレス加工や厚い板からの切削よりも、一見手間ひまがかかりそうな人間の手が、もっとも効率よく、コストもかからないからだ。

 「いくらいい機械ができたって、打ち出し加工は継承していかないかん」

(小野木康雄)

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