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2008年11月07日(金) 17時34分

思想信条による歴史認識は問題解決の道を閉ざすツカサネット新聞

話題の田母神俊雄航空幕僚長は退任し、退職金も自主返金せよという大臣からの要請まで受け、 批判が集中している。当然その立場上、論文発表には手続が必要だろうが、その申請が検閲ではないとしたら、この論文が申請に基づいて発表されたらどうなっていたことだろう。

これは一幕僚長の論文のみが問題なのではなく、この論文を生んだ状況と、その処分の論拠も問題なのではないだろうか。


第1にこの論文の問題点は、政府見解とは異なる歴史認識を主張する論文を発表したことに対して、更迭という処分をしたのだが、この政府見解とは、村山談話を現政府が踏襲しているという点である。

その村山談話とは、平成7年村山政権が、過去の戦争についての謝罪国会決議を行なおうとしたが、決議反対が大きな声となり決議は見送りにされ、当時の村山首相は、自分の意を総理大臣談話というかたちで行なったものだ。

要するに法的拘束力も国会決議でもないものなのだが、以降、政権が変わるたびに政府は、村山談話を踏襲するといって歴史認識を確認させられている。

国会決議でもない首相談話を、常に永遠に踏襲するというのは、思考停止を宣言するようなものであり、見解の相違が即更迭の対象となるというのは、公平な処分といえないのではないだろうか。

ただし、田母神氏も何故、個人の歴史認識を論文に表現したのか?不必要なことであり、氏の立場なら論文にある「安全保障における集団的自衛権の日本国の課題」に終始していればよかったのにと思えてならない。


第2に、あいかわらず御忠心申し上げるメディアの姿勢である。ニュースには結語として「アジア諸国から問題視されることが予想されます」と、相変わらずの言い回しである。

メディアが必要なのは煽ることではなくて、談話とはどういった経過によって生まれたものか?。それを踏襲する必要性とは何か?そして常に相反するような異なる歴史認識があり、事実をどのように受け止めるべきか?といった面が必要なのではないだろうか。

イメージで、意味を感覚的に捉えて「分ったつもり」である。侵略とはどういったもので、それを当時はどのように受け止めていたのか。また同じ時代、他の国々はどのようなかたちで「侵略」に関わっていたのかを、きちんと整理して意味を把握する必要がある。

先の戦争で勝った国の侵略は許され、負けた国の侵略は許されない、というのが今の「侵略」のさす意味だと何故正直に言わないのか。政府がそれに触れることができなくとも、メディアは触れなければならないことだと思う。なぜなら、事実を少しでも客観的に知るには、当時のメディアの報道内容と、政府公式発表とを照らし合わせることによって、いくらかでも公平な目で当時を探ることは可能になるからだ。公平であることはメディアの生命線である。

これらから思うのは、思想信条を歴史認識に照らし合わせ、それを公の立場を持つ者が自分の解釈で言ってはならない、ということだ。

今に至るまで、常に日本が抱える歴史的問題は、村山談話・河野談話という、自らの思想信条の思うままに歴史認識を表現したことによって、解決の糸口をふさいでしまっている点だと思う。

またメディアの姿勢に報道者の思想信条が紛れると、問題が解決に向けての議論ではなく、批判することのみが目的になってしまう。それらは日本がより良く国際社会に存在するためでも、国益を鑑みた上での、確証ある事実を踏まえたものでもないからだ。

もう一つ思うのは、国を守るのは勇猛な人物ではなく、賢明な人物にしか行なえないということである。その面から見れば田母神氏は、一矢投じた勇敢な武官であったかもしれないが、場面と時を図る賢明さは持ち合わせていなかったといえる。


(記者:竹山壽)

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