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2008年11月02日(日) 20時31分

本能寺の変 異説飛び交う事件の真相は産経新聞

 天正10(1582)年6月2日、午前4時ごろ。四条坊門西洞院にある法華宗の一大寺院を、約3000人の軍勢が取り囲んだ。

 寺はさながら城郭といえるほど強固なはずだったが、軍勢は堀に架かる橋で警備を討ち取ると、あっさりと内部に侵入。「寺の門は開いていて、中はネズミ一匹いないほど閑散としていた」と、後に下級武士の一人が述懐した。寺の武将は、自らが狙われるとは夢にも思っていなかったのだ。

 戦いはほどなく幕を引く。武将らはさしたる抵抗もできぬまま、まもなく寺に火が放たれ、自室で最期の時を迎えたのである。

 「天下布武」を目前に控えた織田信長が、明智光秀の謀反にあった「本能寺の変」。

 重臣の思わぬ反旗で希代の武将が志半ばで倒れた悲劇のドラマは、実はわずかな時間で遂行され、あっけなく幕を閉じている。

 信長と交流のあったイエズス会の宣教師、ルイス・フロイスが記した。「どのようにして彼が死んだか分かっていない。ただ我らが知り得たことは、その声だけでなく、その名で万人が戦慄した人が、毛髪といわず骨といわず灰燼(かいじん)に帰したことである」

 光秀が主君を討つに至った理由は何か。数多の俗説が登場しては消えた。

 江戸時代には信長によるいじめへの「遺恨説」が流布した。歴史資料には江戸時代に編集されたものも多く、戦前の歴史学会では根拠のない資料を参考にした研究が繰り広げられた。

 資料批判が進んだ近年も、多くの説が唱えられている。信長に追放された足利15代将軍・義昭の黒幕説、朝廷が光秀をそそのかしたとする説、イエズス会が政権交代をもくろんだとする説など枚挙にいとまがないが、どの説にも根拠はあり意見の一致をみていない。

 ただ、政変自体があっさりと遂行されたように、この「歴史のミステリー」をめぐる背景も極めて現実的だったのではなかろうか。

 歴史作家の桐野作人氏は著書「だれが信長を殺したのか」(PHP新書)で指摘している。

 「本能寺の変は決して劇的なものではなかった。黒幕もいなければ、光秀がなんらかの大義名分を振りかざした義戦でもなかった」

 光秀の肉声を示す記述は数少ないが、両者の関係が蜜月から決裂へと変遷した過程はかいま見ることができる。

 天正8(1580)年、信長は延暦寺焼き討ちや丹波・丹後攻めで功績を挙げた光秀を「天下の面目をほどこした」とたたえている。

 2年後の茶会の際には光秀が床に信長の書を飾っており、光秀も信長に信服していた様子がうかがえる。しかしその年の5月、両者は対立に転じる。

 7日、信長は光秀を取り次ぎとして、長年友好関係にあった土佐の長宗我部元親に領土の一部返納を迫り、拒否されると出陣を決断した。

 光秀は、自らの家中と元親家中に親密な親族関係を抱えていた。桐野氏は「光秀から見れば面目を失わせるほどの屈辱だったはずで、織田家中での勢力後退をもたらす可能性が大きかった」と指摘する。

 15日には、光秀が信長に言葉を返し、信長が怒りをこめて光秀を足げにした様子も目撃されている。

 これらの出来事がどれだけ影響を与えたかはわからない。しかし約半月後、信長が手薄な軍勢で京都に立ち寄った“偶然”をとらえ、光秀は確かに本能寺に兵を向けたのである。

 変を起こす直前の5月28日。光秀は愛宕権現の連歌の会でこう詠んでいた。

 「ときは今あめが下しる五月哉(かな)」

 「とき」は光秀の家系である土岐氏、「あめが下」は天下、「しる」は統るを意味し、天下統一を目指した歌だったともいわれる。

 夜明け前、桂川を超えて洛中に兵を向ける光秀の脳裏に浮かんだのは、おのが手による新しい「天下」だったのだろうか。(森川潤)

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