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2008年10月26日(日) 20時05分

パラオの慰霊碑守りたい かつての戦友が支援金を求めて奔走産経新聞

 麻生太郎首相の祖父、吉田茂元首相が揮毫(きごう)した碑など太平洋戦争で玉砕したパラオの島に建つ戦没者慰霊碑を保存したいと、かつての戦友でパラオ在住の海洋生物学者、倉田洋二さん(81)が奔走している。ホテル建設計画で立ち退きを迫られ、移設費80万円の支援を求めてこのほど一時帰国した。「玉砕の島の生き残りとして、戦友たちの碑を守りたい」と訴える。

 パラオは昭和20年の日本の敗戦まで31年間、日本の統治を受けた。現在も日本人の子孫が1000人ほど暮らす。戦争末期には日米の激戦地となり、このうちアンガウル島では、面積わずか8平方キロの島を守る日本軍約1300人に対し約2万1000人の米軍が押し寄せた。生き残った日本兵は34人。倉田さんはその一人だった。

 東京都出身の倉田さんは戦後、都の小笠原水産センターで所長を務め、アオウミガメの食用研究などに従事して「カメ博士」と呼ばれた。定年後の平成6年、「戦友の墓守がしたい」とパラオへ移住。都内の海洋自然保護NPO(民間非営利団体)「OWS」の副会長としてアンガウル島の州立自然公園作りに携わった。

 島の浜辺には「戦没日本人之碑 日本国政府 内閣総理大臣 吉田茂」などと刻まれた昭和28年建立の国の慰霊碑をはじめ、玉砕部隊の出身地だった栃木県の観音像、戦友会の碑など6基と個人の慰霊碑20基の計26基が並んで建つ。

 倉田さんは「どの碑もはるか太平洋のかなた彼方にある日本の方角を向いている。戦友の遺品の日誌には『この大海原が歩けるものなら歩いて祖国へ帰りたい』と書いてあった」。パラオの中心コロール島から年4回ほど訪れ、掃除と参拝を続けてきた。今年に入って慰霊碑がある民有地の地主が「ホテルを建てたい」と移転を求めてきた。

 倉田さんはアンガウル州政府にかけ合い、島内で移設地を確保したものの費用に苦慮。「原則、碑を建てた団体や個人に負担してもらいたい」と帰国して関係者を訪ね歩いた。国の慰霊碑は厚生労働省が負担することになったが、戦友会が解散していたり、遺族が亡くなって連絡の取れないケースも少なくなかった。

 アンガウル島は戦後の日本とも関係が深い。かつて肥料の原料となるリン鉱石が豊富にあり、日本の敗戦後の食糧難の時期に約10年間、日本人約200人が掘削を続けて食糧問題の解決を陰で支えたという。ホレス・ラファエル州知事は倉田さんに託した日本人への書簡でこうつづっている。

 「戦時中、日本軍は玉砕しましたが島民は日本兵に守られました。慰霊碑の移設地は太平洋を望む州有地にあり、英霊たちも永遠に安らかな眠りにつくことができるでしょう」

 問い合わせはOWS事務局((電)03・5960・3545)。寄付の振込は三井住友銀行渋谷支店、普通口座6445395「アンガウルの未来を考える会」。使途はOWSのホームページで報告される。

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