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2008年10月11日(土) 15時44分

【記者が読む】アルサロ火災から36年 個室店難民が想起させるもの…産経新聞

 今年はプッチーニ生誕150年。日本各地でもオペラ大作が記念上演されている。遺作「トゥーランドット」で中国の王女は全国民に命じる。無理難題だ。トリノ五輪の女子フィギュア、荒川静香が金メダルを獲得した際にも使用された曲名を黒板に大きく書き出し、「さあ、読め」と声を張り上げた。

 「誰も寝てはならぬ」

 京都・洛北の私立大学での講義の際だ。週1回、非常勤講師を務めている。担当は午前9時開講の1時限目。神戸の自宅で5時に起床、3時間かけ、やっと間に合う。こちらもヘトヘトだが、遠方からの通学生も疲れるのだろう。長机に両手を思い切り広げ突っ伏して、熟睡する姿も散見する。

 「そりゃー眠かろう。でも世間に出たら、そんな寝方は通用せんゾ」。まずは叱り、続いて助言した。「いいか、姿勢をさほど崩さず、目を閉じて瞑想(めいそう)するかのように眠る。それが社会人としてのたしなみ?じゃ」。普段、実践している寝姿のポーズをしてみせた(慣れてるし)。

 入社2年目、昭和47年5月14日の日曜日。早朝、直属の上司、岡山支局長に叩き起こされた。「こりゃ! とっとと起きんかい」。前夜、大阪市南区(現・中央区)で千日デパート火災が発生し、7階のアルバイトサロンで客、女性従業員ら118人が亡くなっていた。負傷者78人。すぐ大阪本社へ応援取材に行くよう命令が下った。開通間もない山陽新幹線一番列車で大阪へ。本社社会部で指示を受け、被害者の顔写真集めに出た。

 「7階の窓から次々、女性が飛び降りて来る。写真部員に『早く撮れ』と言うんやが、コチコチに固まってもうて」

 当時、社会部でサツ回り記者だった先輩Yさん。一番に駆けつけた時の衝撃を、後に安ーい酒場でよく述懐していた。こちらはカメラに接写リングを取り付け、顔写真集めのため深夜まで狭い路地を走り回った。

 犠牲者の死因のほとんどが店内での窒息死だった。翌15日付朝刊2面には大阪府警捜査1課担当、G記者の迫真のルポ「るいるい死体の山」が載った。3面には死者95人の顔写真が掲載された。子供を抱え生活苦と闘う母親達が多かった。本当に悲惨な火災だった。

 当時は、未だ週休1日の時代。日本人は本当によく働き、土曜夜が最高のリラックスタイムだったため、被害は甚大となった。あれから36年。大阪・難波の個室ビデオ店で火災が起き、15人が死亡した。今回は少しでも宿泊費を浮かそうと、ホテル代わりに利用する実態が浮き彫りになった。時代を超え、通底する「貧しさ」、「切なさ」がある気がしてならない。

 担当講座は「現場から見たマスコミ」。今週は急遽(きゅうきょ)テーマを切り替え、鎮魂の思いを込めて2つの火災、記者の取材活動について講義した。(編集委員 藤原義則)

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20081011-00000123-san-soci