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2008年09月19日(金) 12時53分

物乞いと、牛と、バックパッカーが行き交う首都〜自転車世界一周40000キロの旅(103)オーマイニュース

<前回までのあらすじ>
 地球一周40000キロを自転車で走る。壮大な夢を抱いて僕は世界へ飛び出した。アルジェリア人チャリダーのムハンマドと一緒にインドに入国、旅の仕方の違いに戸惑いながらも、パンジャブの平原を走破する。

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 デリーの安宿街パハールガンジには、宿や食堂や土産物屋が密集していた。英語や日本語の看板に溢れていた。通りはゴミだらけで、物ごいが多かった。牛が闊歩(かっぽ)していた。大きなザックを背負ったバックパッカーたちが、きゃっきゃ言いながら歩いていた。

 その人込みの中を、客を乗せたサイクルリキシャが走っていた。サイクルリキシャとは、自転車を改造して客席を取り付けたリキシャだ。バイクを改造したものはオートリキシャと呼ばれていた。ただでさえ狭苦しい道が、まるでラッシュ時の駅のホームのように渋滞していた。

 僕とムハンマドは結局デリーまで一緒に走り、同じ宿に泊まっていた。デリーでは別行動で、宿でもあまり顔を合わすことはなかったが、代わりに何人かの日本人と遭遇した。

 普段はタイに住んでいるというおじさんがいた。インド北部のマナーリーから来たのだと言った。そこで宿を経営しているというインド人の若者と同室だった。マナーリーはガンジャの名産地として有名であることを僕は知っていた。どうやら買い付け目的でマナーリーを訪れたようだった。僕が若者と英語で喋(しゃべ)っているのを聞いて、「すごいな、ペラペラだねえ」と妙に感心してくれた。

 学生風の2人組がいた。彼らは僕がドミトリーに泊まっていると聞いて驚いた。どうやら宿のおやじは、僕やムハンマドには値段の安い部屋を提供する一方、旅慣れていない彼らにはうそをつき、値段の高い個室を案内していたようだった。また2人は、「さっき猿を買ったんですよ」と、突然話し始めた。なんでも道を歩いていて、露店で売っていたものを1000ルピーで衝動買いしたそうだ。

 「面白いから日本に持って帰ろうかと思ったんですよ」

 「検疫で引っかかるから無理でしょ」

 僕がまじめに答えると、「あ、でも、もう捨てました。腕の中で小便されたんで」と、あっけらかんと言ってのけた。

 2カ月で北インドを回ったというウエノくんは、唯一旅行者としての波長の合った相手だった。立派なカメラを持っており、写真を撮る目的で来たのだと言った。

 「この旅で出会った中でキフネさんの旅が一番すごいですよ」

 そんな言葉で褒められても、さして気分は浮かなかった。

 穴の開いたフロントバッグを補修していると、隣室のイタリア人女性が裁縫道具を貸してくれた。僕はムハンマドが例によって彼女を狙っていることを知っていた。話しかけてきた彼女に、僕は適当な愛想笑いを返したが、あとになって、食事にでも誘ってみればよかっただろうかと、少し後悔もした。ムハンマドだったら間違いなくそうしていただろうし、そのことで彼とけんかになったとしても、それはそれで面白い。

 淡々と僕は観光した。オールドデリーに建つ赤い城ラール・キラーや、巨大なシャーマスジッドモスクを訪れた。同じムガール帝国の遺構だから当たり前なのだが、ラホールのラホールフォートやバードシャヒーモスクに、とても似た造りをしていた。巨大な城門や、広々した庭園。たしかに立派だが、新鮮味はなかった。

 気に入らないのは観光地の入場料の高さだった。地元インド人は10ルピーなのに、外国人はなんと250ルピー。イランやパキスタンにも外国人料金は存在したが、25倍という格差は、あまりにボッタクリに思えた。

 「エク(1枚)」

 「ダスルピー(10ルピー)」

 多民族国家インドには、さまざまな顔立ちの人がいる。僕はインド人のふりをして、地元料金で入ってやろうとたくらんだ。ラール・キラーでは成功したが、奴隷王朝時代の塔クトゥブ・ミナールでは失敗した。警備員に「お前は外国人だろ」とばれて、追い返された。

 泊まっていた宿の宿代が100ルピー、従業員の月給が1500ルピーと聞いていた。現地の物価感覚に慣らされていた僕は、250ルピーも払う気がせず、そのまま退散した。

 1週間滞在しようと思っていたデリーだったが、5日間で去ることにした。

 最後の夜、僕はまたムハンマドと飲みに行った。パハールガンジの一角にある、外国人向けのバー兼レストランで、店内には大型スクリーンがあり、空調は当然ばっちり効いていた。僕らはチャーハンを注文し、キングフィッシャービールを飲んだ。

 明日デリーを出ると言うと、彼は少し寂しそうな顔をした。パスポートやビザの手続きのため、まだ数日はデリーにいるつもりだと話した。イタリア女を落とすことはできなかったらしく、僕に愚痴をこぼした。

 「この旅のゴールは日本なんだ。アジアの東の端は日本だろう」

 ムハンマドは言った。

 「そのときは連絡してくれよ」

 僕らは再会を誓い、そして別れた。
安宿街パハールガンジ。狭い道に牛が寝そべり、これを避けるようにリキシャが走る。(撮影:木舟周作)

【2002年10月29日
 出発から25570キロ(40000キロまで、あと14430キロ)】

<次回予告>
 デリーから南西の方角へ。ラジャスタン州からグジャラート州へと走り続ける僕に、とある旅行者が言い放ったひと言。(9月26日ごろ掲載予定)

(記者:木舟 周作)

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080919-00000000-omn-int