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2008年09月05日(金) 17時05分

【連載】ブロードバンド“闘争”東京めたりっく通信物語 5. NTTに依拠しない通信網は可能なのかJ-CASTニュース

 「なんにせよ、NTTへ支払う通信料金を革命的にダウンさせないと日本に先はないぞ」と私の中に常識人としてのコスト意識が目覚めるようになったのは、東京インターネットの収支構造にはっきり赤字という定常性が見えてきた1997年からであった。

 それまではもっぱらマーケットの開拓に没頭していたから、とてもそのような腹の据わった発想は浮上してこなかったのである。

 NTTへの支払いはビジネスの前提条件という潜在的意識が、前提条件そのものを疑うよう徐々に顕在化してきていた。追い詰められていたのである。

 この年の真冬のある日の午後のことであったと思う。私はTnetの赤字体質について2人の人物を相手にその抜本的な解決策を論じあう機会を持った。

 その1人はすでにTnet経営陣からはずれていたが、時代の先読みに定評のある鈴木優一さんである。彼には困難な課題が出るといつも相談に乗ってもらっていた。

 他の1人は数理技研がかつてFusionというTCP/IPエンジンの移植事業に熱を入れていたとき、アンペール社から数理技研に移籍した通称「宮様」こと平宮康行君である。彼は当時、すでに退社していたがUBAのボランティア事務局員として私の事務所によく出入りをして、社長室員のような立場にいた。

 議論はこの日の天候のように寒寒としていた。ダイアルアップの従量課金も頭にくるが、使い放題の専用線の定額料金がなにしろ馬鹿高い。顧客もISPもこの壁で行き詰まっている。議論はそのころ話の端に上ることが多くなっていたADSLに自然と向っていった。素晴らしい通信技術であることに異論はなかった。

 現用の電話メタル線で毎秒1メガビットのスピードが出せる、したがって設備コストはほとんど掛からない、米国では高速インターネットアクセスの本命としてすでに実用段階にあるという。何よりも専用線という壁が崩せることが圧倒的に大きい。

 しかしメタル回線を100%握っている肝心要のNTTはどうやら乗り気ではないらしいという話はすでに伝わっていた。光ファイバーで日本列島を覆うのだという方針しか聞こえてこないし、メタル線はもっぱらISDNの話ばかりである。

 ああ、NTTが始めなければ、この起死回生の技術も日本では夢で終わるということか。通信インフラという領域を我々自身の力でどうにかできるという思考回路は残念ながらそのころの私にはまったく欠けていたから、全てがNTT頼みだったのである。

 絶望感はいよいよ深まるばかりであった。じっと考え込んでいた鈴木さんが、突然、独特の、どもるような調子で咳払いの後にぼそっと呟いた。

  「要するにNTTの線を使わなければいいんだろ。有線放送とかいうのがあるだろう、あんなの使えないかな」

 「ええ?呑み屋で音楽を流すやつなら知ってるぞ、勝手に通信線を引いているらしい。(注)」と私。

 「そういえば、田舎の富山で友人が何か有線放送電話とかいう話をしていたぞ。こちらは合法だ。結構な数の加入者が居ると聞いている。」と宮様。

 有線放送電話の業態や歴史にまったく無知な3人であったが、議論はたちまちに熱を帯びてくる。

 有線放送電話なら、実験くらいはやれるところに持ち込める可能性はありそうだ。いや、あろうがなかろうが、ここでもがくしかない。

  『そうか、そういうことなのか、我々はあまりに深く、与えられた条件の呪縛にかかっていたのだ。やっても、やっても、稼いでも、稼いでも、その先にNTTが待ち構えて道を塞ぐ。それならば、NTTに依拠しない情報通信の可能性に挑戦するしか手はないではないか。鈴木さん、よく言ってくれた。よし、やってやろう。ADSLをNTT以外の場に持っていってみよう。NTTがADSLをやるかやらないか、こんなことを考えるのはもうやめだ。我々とてもISPという通信事業者のはしくれだ。NTTという所与を越えて通信の新技術に取り組むという気概をもってこそ道は拓けるのだ』

 私の決意はこの会話の中で以上のように固まっていった。

 それまで、メタル線であれ光ファイバーであれ、インターネットアクセス網の中身のあり方はNTTの専権事項であったことを思い起こしてほしい。

 電話局の中や、電信柱の上のことはブラックボックスとされ、ユーザーは公開されたインターフェースだけ知っていればよろしいとされていた。

 第二種通信事業者であるISPもこの点はユーザーといい勝負であった。もっぱら線の先にぶらさがるルータやサーバー、そして各種端末に専念していた。

 だから、NTTがアクセス網について述べることは怪しいと思っても確証をもって反論できず結局は言いなりにされてしまう。だが、我々がアクセス網に直接触れる事が出来るなら、何が真理かは一目瞭然となる。

 ADSLでは日本ではISDNとの干渉により共存できないというすでに流布が始まっていたのも、実は怪しい話かもしれない。

 「NTTに依拠しない通信網を求めて」という我々の方向性はこのようにして定まった。もし「この時、歴史は動いた」という一瞬はどこだと東京めたりっく通信について質問されるなら、1997年のこの1日であったと言えよう。

 宮様はただちに富山を皮切りに有線放送電話(注:UFO)の現地調査に入った。

 ただちに行動に移ったのである。これを機に彼は数理技研の嘱託社員となり、1年ほど私と行動を共にすることとなった。

 彼のもたらす報告は驚くことばかりであった。その詳細は後に記すが、要はあのときの我々が直観的に得た啓示ともいうべき方向性は事実の裏打ちをうけて、間違いではないことが証明されたのである。NTTの支配が及ばない電話事業の存在を発見し、NTTが管轄しない数十万という電話メタル線や交換機の塊を目のあたりにしたのである。

 また、有線放送電話事業の多くは農業共同組合事業として組織されており、農業系団体へのアプローチが不可欠なことも判明した。全農、農協中央会農林中金や有線放送電話協会へは私が足を運ぶこととなる。こうして長野県伊那市有線放送電話網でもADSL実験への流れが開始された。

  注:音楽コンテンツを流す有線放送との混同をさけるため、有線放送電話事業者は自身を「UFO」と表記をしている。なんと素晴らしい名称ではないか。

【著者プロフィール】
東條 巖(とうじょう いわお)株式会社数理技研取締役会長。1944年、東京深川生まれ。東京大学工学部卒。同大学院中退の後79年、数理技研設立。東京インターネット誕生を経て、99年に東京めたりっく通信株式会社を創設、代表取締役に就任。2002年、株式会社数理技研社長に復帰、後に会長に退く。東京エンジェルズ社長、NextQ会長などを兼務し、ITベンチャー支援育成の日々を送る。

連載にあたってはJ-CASTニュースへ

東京めたりっく通信株式会社
1999年7月設立されたITベンチャー企業。日本のDSL回線(Digital Subscriber Line)を利用したインターネット常時接続サービスの草分け的存在。2001年6月にソフトバンクグループに買収されるまでにゼロからスタートし、全国で4万5千人のADSLユーザーを集めた。

写真
撮影 鷹野 晃
あのときの東京(1999年〜2003年)
鷹野晃
写真家高橋?氏の助手から独立。人物ポートレート、旅などをテーマに、雑誌、企業PR誌を中心に活動。東京を題材とした写真も多く、著書に「夕暮れ東京」(淡交社2007年)がある。

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