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2008年08月28日(木) 17時16分

集う旅人たち、チャリダーの孤独──銀色の轍100オーマイニュース

<前回までのあらすじ>
 地球一周40000キロを自転車で走る。壮大な夢を抱いて僕は世界へ飛び出した。アラスカから始まった旅は、1年5カ月を経て地球半周、僕はインドとの国境にほど近いパキスタンの都市ラホールにいた。

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 ビザの準備が整い、いつ出発してもよかったのだが、僕はその後数日をだらだらとラホールで過ごしていた。結婚するいとこに祝電を打ったり、自転車の荷台を修繕したりした。チューブも新しくしたが、パキスタンで手に入るチューブは、なぜかド派手なピンク色だった。

 ラホールは、かつてインド亜大陸に君臨したムガール帝国の都が置かれた街。入り組んだ迷路のような旧市街の奥には、3代皇帝アクバルの代に建設の始まった城砦ラホールフォートと、6代目アウランゼーブの建てた巨大なバードシャヒーモスクが対峙(たいじ)していた。

 ラホールフォートは内部が思った以上に広く、歴代皇帝により増築されていった謁見(えっけん)所、広間、礼拝所が残されていた。緑も多く、旧市街の混沌(こんとん)がまるで嘘(うそ)のような落ち着いた世界。上流階級らしき地元の家族連れで賑(にぎ)わっていた。着飾ったご婦人たちと、おめかしした子供たちがいた。

 リーガルインターネットインはにわかに混雑していた。日本人が大半だったが、韓国人やドイツ人、イギリス人がいた。

 変わったところでは、アルジェリア人の男性がいて、しかも彼は僕と同じチャリダーであった。みな4階のテラスに集まって、旅の情報交換や、たわいもない雑談に興じていた。

 「徒歩か、もしくは自転車で来たお客には、インターネットはタダなんだ」

 宿主のマリックはそう言って僕にほほ笑んだ。リーガルインは名のとおりインターネットカフェを併設した宿だったが、スキャナーも無料で使うことができた。僕はラホールで現像したばかりの写真を取り込んで、ホームページに公開した。

 人数的に多数を占める日本人旅行者は、なんとなく2つのグループに分かれていた。インドや中国方面からラホールに来たばかりの短期組は、外食に出掛けることが多かった。僕はよく彼らについてマトンカレーを食べに出掛けた。近所のアイスクリーム屋に繰り出すこともあった。

 旅が長くなるにしたがい、される質問というのがたいがい決まってくる。

 「どこが一番面白かったですか?」

 最も多い質問はこれだった。いつも迷うふりをしながら、僕は答えた。「アラブかな。シリア、ヨルダン、エジプト、あのあたりが楽しかったですね」

 歴史的な見どころに溢れ、旅仲間にも恵まれていた。なにより旅に出て半年あまり、強盗事件からも立ち直り、旅への意欲がわいていた時期だった。

 「危険な目には遭いました?」

 以前は答えたくない質問だったが、最近は平気になった。

 「ありますよ。グアテマラで強盗に」

 僕は飄々(ひょうひょう)と答えた。

 「後ろから殴られたんですよ」

 拳を握り、後頭部を殴りつけるしぐさをしてみせた。聞いた相手が怯(ひる)んだ表情をするのを、笑って見られるようになった。

 一方のグループは、ヒロくんやアフガン帰りのユースケくんなど、長期沈没組だった。彼らは外食をせず、市場で野菜を買ってきては、毎日自炊しており、僕はたまに混ぜてもらうことがあった。クリームシチューや天ぷら、杏仁(あんにん)豆腐といった凝った献立が食卓を飾った。政府が認める特別の飲酒許可を取って、パキスタン産のマリービールを仕入れてくることもあった。

 彼らはまた、よくテーブルの上で作業をしていた。料理の下ごしらえをしている場合もあったが、そうでないこともあった。煙草の巻紙の中から葉を取り出してがらんどうにし、その中にガンジャ、あるいはハシシを詰めるという作業だった。大麻の草を乾燥させたものがガンジャ、草ではなく樹脂を固めたものがハシシ。煙草の巻紙に巻いて火をつけて吸っていた。

 「これ、アフガンゴールドっすよ」

 ユースケくんが僕に言った。僕の興味を誘うような口ぶりだった。

 「ふうん……」

 僕の反応が薄かったので、彼は拍子抜けしたような表情になった。アフガンゴールドというのは大麻のブランドであり、その品質がとりわけ極上とされているものだった。僕は名前だけは知っていた。

 僕はどうやら、彼ら長期組からも一目置かれていた。1年半も旅を続けているチャリンコ野郎で、しかもアフリカ帰り。それだけの旅経験を積んでいる人間なら、当然アフガンゴールドのなんたるかを熟知し、話に乗ってくるだろうと、そう思われていたようだった。

 誰かと一緒にいれば、決して孤独を感じることはなかったが、自分の居場所が定まらないような、そんななぜか苦しいふわふわした気持ちは、どうしてもぬぐい去ることができなかった。イスファハンで「上級者の朝食っすね」と言われたころから、僕の心の奥底に澱(おり)のようにたまり始めていた。

【2002年10月18日
 出発から24970キロ(40000キロまで、あと15030キロ)】

<御礼・読者のみなさまへ>
 オーマイニュースの創刊まもない2006年9月に、当旅行記「銀色の轍」シリーズは始まりました。以来ちょうど2年、ついに連載第100話を迎えることとなりました。

 奇しくもオーマイニュースが終わり、オーマイライフが始まる区切りの時期、不思議な縁を感じずにはいられません。ですが、いずれにせよ書き続けてこられたのは、ひとえにお読み下さったみなさまのお陰と感謝しております。

 今後オーマイライフの紙面構成において、「銀色の轍」がどのような形となるのか、私自身分かってはおりませんが、101話以降も書いていきたいと考えています。

 いまだ遠き日本を目指して。引き続きよろしくお願いいたします!

(記者:木舟 周作)

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