記事登録
2008年08月21日(木) 16時15分

心と体の疑問〜お盆を迎えてツカサネット新聞

最近、ニュース番組を観ていて、あることばに疑問を抱くことが多くなった。不慮の事故や事件で亡くなった人のことに関して「遺体で発見されました」「遺体の確認作業を行っている」などという表現がされている。「遺体」つまり、その人の魂はそこにはいないという表現になるのだ。

もちろん、人間の生死に関する考えは宗教によっても違う。また、亡くなった人との関係によっても、大きく違ってくる。もし、自分の身内が亡くなったとき、「遺体」という言い回しをされても事実として受け止めることができない。確かに、目の前に横たわっている家族は息をしない、心臓も動かない。しかし、大切な家族を「遺体」扱いされることに抵抗を感じる。

市役所へ「死亡届」を出すとき、斎場の利用申込も同時に行う。そのときの市役所の対応は「1日、何体まで受け付けます」だ。「何人」ではないのだ。亡くなった時点で、その人は完全に人間扱いされていないことを悟った。

また、最近は廃止の傾向にあるが、お葬式の「香典返し」に「清め塩」がついていることがあった。それも、また宗教的意味を反映しているものだ。近しい人にとって、亡くなった人が清め塩を使う対象になることは、耐え難いものがある。それが、過去からの風習であったとしても……。

もちろん、あの世へ行って帰ってきた人はいないので、心と体の関係について自信を持って説明できる人はいないだろう。たまに「幽体離脱」を経験した人はいるが、それでも確実な答えは出せないのではないか。

ひとつだけいえることは、亡くなった人との関係がより近いものになったということだ。生きているときは、その場限りの対処をすることもある。しかし、亡くなった人を前にして「ごまかし」は通用しないのだと、そういう気持ちが湧いてくる。訃報を後で知って、実家など故人を祭ってあるところへかけつける。それは、遺族に対する義理があるのかもしれない。しかし、それ以上に故人とのストレートな関係が濃厚になるという気持ちの表れではないだろうか。

お盆の行事は、地域によって、宗教によって違いがあるが、共通する点は先祖を崇拝する気持ちだと思う。その姿をご先祖様たちは、どこで、どういう形で見ておられるのだろうか。それもまた疑問に思う。本来なら、お盆、お彼岸など関係なしに、日常的に先祖供養をすることが理想的だ。しかし、その機会がないから、あえて行事として設置して定着したのが、お盆やお彼岸だという。

自分が亡くなったらどうなるのか。子孫がいない私は、入るべきお墓もない。いったいどうなるのだろうか。もし、不本意な最期を遂げたとき、「まだ死にたくない!」と、声無き声を張り上げるのだろうか。

旧盆の季節。アパート近隣の一軒家から聞こえる「ご詠歌」の鐘の音を耳にしながら、日常の疑問についてふれてみた。

(記者:翔子)

■関連記事
翔子記者の書いた他の記事
「生活・心と体」カテゴリー関連記事

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080821-00000008-tsuka-peo