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2008年08月11日(月) 11時13分

魔法の言葉「自分たちの野球」の正体オーマイニュース

 炎天下、夏の高校野球大会が熱戦を繰り広げている。

 かって、ヤクルトに在籍していた元大リーガー、ホーナー選手は、「地球の裏側には、もうひとつの違う野球(ベースボール)があった」という言葉を置き土産にして、日本を離れた。これは、彼の目を通した、野球の本家としての米国から見た日本野球観である。

 本家の自負をもってすれば、日本のプロ野球は似て非なるものに映ったのだろう。が、その日本の野球の中でも、高校野球はとりわけ特殊な進化を遂げ、一種独特な世界を醸し出している。

 例えば野球規則。基本的には、プロ野球の規則と変わるところはないが、高校野球という見地から、運用面で随所に教育的配慮を垣間(かいま)見ることができる。

 具体的には、打者に投球が当たった場合、打者が回避できると審判が判断した時には死球とはみなされないことや、封殺プレーの場合の、走者のスライディングや捕手の捕球位置に対する制約などは、プロでは賢いプレーとして絶賛されるのだが、高校野球になると禁止されることが多い。

 また戦術的には、一投一打、徹底的な管理野球で、無死で走者が出れば絵に描いたように決まって送りバントだ。その昔、送りバントを嫌った攻撃野球で、3 度も頂点を極(きわ)めた蔦文也監督率いる池田高校という強豪もあったが、その後はこの路線を継承する高校は少なく、現在でもバントを多用する高校が主流だ。

 グラウンド以外にも特殊な進化を遂げたものもある。高校野球を観戦する観客の姿勢だ。観客は、野球より、感動そのものを味わうために球場へ足を運ぶ観がある。その感動は試合が始まる前からすでに始まっており、まるで感動のための感動と思えなくもない。

 また、放送局は放送局で、たとえ選手にミスがあっても、懸命さゆえのミスであることを強調し、ミスに対する技術的、客観的な考察、批判を避ける傾向にある。このような彼らにとって、高校野球はまるで聖域化、神格化された特別な存在でもあるようだ。

 この背景には、高校スポーツにおける野球の位置づけにある。

 現在、埼玉県を会場にインターハイが行われている。このインターハイでは全部で29競技が行われるが、野球はスキー、スケート、ラグビー、駅伝などの冬季限定のスポーツなどとともに対象外となっている。その理由として挙げられているのが、高野連に加盟していないことによる甲子園での単独開催だが、単独開催で、しかも国民的人気とあれば、野球が特別な存在になってもおかしくない。そして、その空気は選手や監督に、微妙な錯覚を起こさせているから厄介だ。

 その錯覚は、試合の終わった監督、選手へのインタビューにも表れる。

問「今日の試合は、どんなピッチングでした」
答「自分のピッチングができませんでした」

問「今日の試合を振り返ってひと言お願いします」
答「自分のバッティングができませんでした」

問「監督から見た、今日の試合の印象は」
答「自分たちの野球ができなかった」

 このように、試合に敗れたチームの選手、監督のコメントは、決まって「自分(たち)のプレーや、自分たちの野球ができなかった」だ。他方、勝った高校の選手や監督も、一様に「自分たちの野球ができました」と歓喜する。

 結局、両者が主張する「自分たちの野球」という魔法の言葉の前に、客観的な勝因も敗因もオブラートに包まれ、表に出てこない。この流れにメディアも加担するから始末が悪い。この時ばかりは、普段は辛口のはずのメディアも、鋭いつっこみは控え、「自分たちの野球」の裏側にある、敗因の実態を追求しようとはしない。まるで、不可侵条約や紳士協定が存在しているみたいだ。

 このようにしてみると、高校野球とは、あくまで純粋で、けなげで、一途(いちず)で、ひたむきで、真摯(しんし)で、美しいものでなければいけないようだ。この結果、表向きには、誰も傷つく選手がいないことになる。

 夏の高校野球。青春、感動のドラマも悪くはないが、野球技術の進化、向上のために、もっと技術的、戦術的進化も遂げて欲しいものだ。そのためには、「自分たちの野球ができなかった」ではなく、現実を見つめて「実力不足でした、技術的に未熟でした」と、語ることから始めなくては。

(記者:藤原 文隆)

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