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2008年07月31日(木) 00時00分

(3)片手の剣士 支えた励まし読売新聞

ロケ地になった橋に立つ嘉村さん。ダム工事が進んで当時の風景は消え、橋だけが残る
寅さんと対面した嘉村さん(右)

 「よう、立派になったな。剣道、頑張ってきたんだなあ」。今、寅さんに会ったら、こんな言葉をかけてくれるんじゃないかと思う。まだ、そんな立派な人間だとは思わないけど——。

 佐賀県富士町(現・佐賀市)の嘉村範史さん(30)が、寅さんに出会ったのは1989年11月。小学5年生だった嘉村さんが出した1通の手紙がきっかけだった。

 3歳の時、牧草を砕く機械に右手を巻き込まれ、すべての指を失った。「僕の手、いつごろ大きくなるの?」。幼い時、父の好範さん(58)に、よくこう聞いたという。

 山あいの小さな小学校には剣道クラブしかなく、3年生で剣道を始めた。左手一本で竹刀を上段に構える独自のスタイル。4年生で出た町内の大会で優勝すると、メキメキ腕を上げた。

 5年生の時、町にダムができることが決まり、毎日、剣道の練習をしていた学校がダムに沈むことになった。89年3月、嘉村さんは寅さんに手紙を書いた。「男はつらいよ」は父が大好きで、よく一緒にテレビで見ていた。

 〈片手で剣道しています。寅さんの映画で元気をもらいました。僕の町にダムが出来ることになり、学校が沈んでしまいます。その前に一度、来て下さい〉

 3か月後、渥美清さんから直筆のはがきが届いた。

 〈おてがみ…ありがとうね…毎日げんきで…べんきようして下さい。かた手でも、剣道している…リッパな君を、みならつて、ボクも、べんきようします。ひとりでも、多くのひとをたのしませたいと、おもいます〉(原文ママ)

 差出人の欄には、「遠い旅の空から… 車寅次郎。より」とあった。

 その年の秋、第42作「ぼくの伯父さん」のロケが富士町で行われた。初めて会った寅さんは「剣道、頑張ってるか」と言って、大きな手で頭をなでてくれた。

 1度だけ、剣道をやめたいと思ったことがある。中学の新人戦。上段の構えが認められず、右手を脇腹に添える姿勢が公正を欠くと審判に指摘され、ショックを受けた。正眼に変えたが、竹刀の振りが遅くなり、試合には勝てなくなった。それでも剣道を続けたのは恩師に恵まれたことと、「寅さんの励ましの言葉が、いつも胸にあったから」と嘉村さんは言う。高2で県大会2位。大学では団体戦で全日本大会にも出場した。

 24歳で高校の教師になった。県内の強豪、三養基(みやき)高校の剣道部で6年間コーチを務め、今春、唐津西高校に赴任した。ところが、剣道部は部員がいなくて休部状態。自ら防具を着て部活紹介に立ち、新入生に呼びかけて、ようやく1人、入部した。

 生徒には、寅さんとの出会いや、ハンデを負って剣道を続けてきた苦労を語ったことはない。苦労は誰にでもあるのだし、自慢ぶるのもがらじゃないから。それでも、竹刀を握れば、伝えたい思いは、おのずから口をついて出る。

 マンツーマンの掛かり稽古(げいこ)。フラフラになった教え子に厳しい声が飛ぶ。

 「あきらめるな。きつい時に何が出来るかぞ!」

 「ぼくの伯父さん」は、おいの満男(吉岡秀隆)が、佐賀の親せきに預けられた高校の後輩、泉(後藤久美子)を励ますために、バイクで会いに行くというストーリーだ。2人は富士町東畑瀬地区の山あいをバイクでデートする。現在、ダム工事が進み、当時の風景は失われたが、それは大好きな映画の中に残った。

 この映画で、高校教師の泉の叔父が寅さんにこんな言葉を投げつけるシーンがある。

 「正直いうて、バイクで突然、来られたりするのは迷惑です。二度とこげんことの起こらんよう、ご指導下さい」

 それに寅さんは反論する。

 「私は満男は間違ったことをしていないと思います。慣れない土地にきて寂しい思いをしているお嬢ちゃんを慰めようと、はるばるやって来た満男を、私はむしろ、ほめてやりたいと思います」

 教師の立場でいうと泉の叔父の言葉は正論だ。でも寅さんの言葉も否定できない。「好きな人のため、好きなことのために(生徒が)一生懸命取り組んでいるとこは見てあげなければいけないよ」。今の自分に寅さんは、そう語りかけているように思うのだ。

http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/tokyo23/feature/tokyo231217264378697_02/news/20080731-OYT8T00131.htm