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2008年07月29日(火) 11時22分

市民から見た報道のジレンマ〜後を絶たない通り魔事件ツカサネット新聞

皆さんはニュースをどのように見ているのだろうか。知識を集めるツールとして、最低限の日々の出来事を知るため、ただ何となく暇つぶしなど、個々人によって目的の違いはあれど、非常に大多数の人間が日々ニュースと向かい合っているという事実に異論はないだろう。

筆者自身はニュースを見ることで知識をつけるとともに、全てのニュースに批判的な姿勢で臨み、様々な観点からニュースを眺めることで問題点などを見つけ出し、それについて考えることが目的となっている。これこそがメディアリテラシー(ニュースを読み解く力)を鍛えるということであり、日本人が欠乏していることであると考えている。

私自身のニュースの考え方の例を一つ挙げてみよう。最近、多発している通り魔事件に関しても私は批判的に見てきたのだが、特にこの関連の報道に関しては到底納得がいかないのだ。世間が「通り魔」という言葉を頻繁に耳にしだしたのは、おそらく先月に発生した秋葉原の無差別殺傷事件がきっかけであろう。筆者自身もそうだ。

まず、この秋葉原の事件を起こした犯人に対しての報道の在り方は間違っていた、と断言したい。面識の無い人々を次々と刺し殺し、警察にも刃物を向けて抵抗し続けた、言わば狂人とも悪魔とも呼べる犯人をメディアは「仕事先でいじめを受けた」「真面目な青年だった」「ネット上でも相手にされず、孤独を感じていた」と、半ば同情的に、まるで彼の周りや世間、そして日本社会全体が悪いかのような報道をしていたのを読者の方々は覚えてはいないだろうか。これが、7人もの人々の命を奪った犯罪者に対する姿勢として適当なものかは、私には未だに理解できないのだ。

日本国内で昨年1年間でたった8件しか発生しなかった通り魔事件が、今年の6月以降たった2ヶ月弱で5件も発生している。私は、メディアが通り魔事件を生んでいると思っているのだ。秋葉原の一件があって以来、メディアは異常なまでに通り魔関連の報道回数を増やしている。つい先日、駅の構内ですれ違いざまに剃刀で少しだけ腕を切られたという事件が、全国ネットの有名報道番組で取り扱われているのを見たことがある。被害者は切られた直後は気付かず、少し間を置いてから痛みを感じたので見てみたら血が出ていた、という事件の規模としては非常に軽微なものであるのに、だ。

私は犯罪心理学などに精通はしていないし、犯罪者の心理など知りたいとも思わないが、ごく一般的な視点から考えた時、社会に不満を持っている人間が毎日のように通り魔という言葉を耳にし、目にしていたらどう考えるのだろうか?報道に感化されて行動に至ってしまうということも考えられなくはないし、実際に秋葉原以来、同様の事件が過去と比べて異常なペースで多発していることから、報道にヒントを得て凶行に至った人間も必ずいるはずだ。

では、メディアはどうあるべきなのだろうか。私論ではあるが、まずはいかなる事件においても犯人擁護の姿勢は徹底的に排除すべきだと思う。犯罪を分析するために、犯人の人格や周りの環境を調べることには文句はない。(立派な成人が事件を起こした時に、小学校時代の文集を取り上げる手法はくだらなく意味が無いと考えているが。)ただ、それは警察や検事がすべきことであり、マスコミが視聴率狙いで犯人の悲しい過去を調べ上げて事件の責任を社会や他人に転嫁するかのような手法は言語道断である。

次に、特定の事件に不要な注目は浴びせないようにするべきである。通り魔の件でも、「最近通り魔事件が多発しているので、○○中学校では緊急集会が開かれ…」や「警視庁はダガーナイフの持ち歩きを規制することに…」といったことまでがごく自然に報道されているではないか。このような報道にどのような意味があるのだろう。学校で注意を呼びかける程度で犯罪が防げるのならば、警察なんぞ寝ているだけでもよい。人の命を奪うだけならダガーナイフのような鋭利な刃物どころか、剃刀でも果物ナイフでも、何ならビニール紐が1本あれば十分である。このような報道の繰り返しが世間の注目を促し、その注目を浴びたいがために犯罪を起こす人間を感化してしまうのではないか。

こんな危惧をしていたら、とうとう悲劇が起こってしまった。東京都の八王子で女性2人が殺傷される事件が起きたことは記憶に新しいが、犯人の動機は「(注目を浴びることで関係がこじれていた)親を困らせようと思った」「最近あちこちで通り魔事件が起きており、刃物を使えば簡単に殺せると思った」と言った類のものである。しかし、この事件に関しての報道を見る限りマスコミは秋葉原の事件から何の成長もしていない。さらに昨日幸い被害に遭われた方は軽症のようだが平塚駅でも同様の通り魔事件が起こりこの手の事件が後を絶たない。

犯人について過保護に育てられすぎた、昔から友人がいなかった、昔は不登校だった、職を転々としていたりケガが原因で就職が流れたりと不遇な生活が続いていた、と同情を煽るような表現を多用し、極めつけは親と上手くいっていなかったとまで報道されている。

ちなみに、この事件の犯人は33歳である。33歳の、世間ではオジサンの一歩手前の良い年をした大人が親と上手くいっていなかったからといって、同情的になる必要などあるのだろうか。そして、犯人に関する一通りの茶番が終わった次は被害者の死を悼む形で「あの子は明るく元気で良い子だった」「将来は○○になりたいと努力していた」「あんなに良い子で、罪もないのに何故…」とお決まりの関係者の涙ながらの談話を放送し、通夜でむせび泣く参列者の映像を流す。果たして、報道の形は本当にこれで良いのだろうか。

マスコミ側の言い分としては、視聴率商売だから注目を浴びる必要があるだとか、人の心を揺さぶるような犯人の心の闇や、被害者を悲しむ人の涙は視聴率を取れる、などが考えられる。確かにそれが事実であるのかも知れないし、資本主義社会で会社が生き抜くためには利益主義、言い換えるなら視聴率至上主義は仕方が無いのかも知れない。ただ、それと同時にIT社会の日本において、マスメディアの存在の大きさと必要性は他の業界と比べて群を抜いていることも事実である。

マスメディアの力で日本は変えることが出来るし、実際に様々な影響を今までも及ぼしてきた。たとえ捏造であっても、全てのマスメディアが「福田総理が1億円収賄」とでも触れ込みをすれば総理大臣は完全に国民の信頼を失い、総理辞任どころか政権交代までもメディア単独の力で成し遂げることが出来るだろう。何故なら、国会の内部事情など知る由も無い私たちにとって、メディアの報道こそが事実であるのだ。

それほど強大な力を持っているのだから、報道の在り方には細心の注意を払う必要があるが、日々の報道を見る限り注意が払われているかは疑問が残ってしまう。会社の利益と社会的な立場を天秤にかけた時、どちらにも付けないジレンマに挟まれるのは理解できるが、もう一度「報道すべきこと」という報道関係者にとっては当たり前であり、永遠のテーマについて議論を深めて頂きたいと思うのだ。



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(記者:オプティミスト)

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