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2008年07月29日(火) 00時00分

(1)「純粋な愛」だけでいい読売新聞

絵筆に重ねた寅さんの孤独
富山のアトリエで絵を描く吉川さん。手前は「男はつらいよ」のシナリオ第2稿や完成稿が入ったキネマ旬報など。

 忘れられないシーンがある。第15作「寅次郎相合い傘」。寅さんが、どさ回りの歌手リリー(浅丘ルリ子)のために、一流劇場でコンサートを開く夢を、とらやで語る場面だ。

 「花束、テープ、紙吹雪! ワーッと割れるような拍手喝采(かっさい)だよ!」

 さくらたちを前に、夢見るように話していた寅さんが、最後は涙をこらえきれずに背中を向ける。

 「いくら気の強いあいつだって、きっと泣くよ……」

 金も定職もない男が、空想の舞台で女が喜ぶ姿を夢みて涙する。ある意味、滑稽(こっけい)でさえあるこのシーンを見て、心身を病むほど人生に行き詰まっていた画家、吉川孝昭さん(48)は救われた。

 安定した職を捨て、創作活動に専念するためにバリ島に移住して4年目のことだった。

 絵を描くのが好きだった。大学の美術サークルで本格的に絵を描き始めた。卒業後も絵の勉強を続けたが、親からの仕送りが途絶えて就職を余儀なくされ、中学の社会科教師になった。

 中学では担任を任され、やりがいのある毎日だったが、絵の方はおざなりになった。絵だけに専念したいという夢に身を焦がした。

 担任のクラスの生徒が卒業した1991年の春。「再出発の最後のチャンス」と教師を辞めた。妻と息子を連れて向かった先はバリ島の奥地。電話もテレビも置かず、過去の人間関係もすべて絶った。

 「お母さん、お父さんが倒れた!」

 当時4歳だった息子が、半泣きの声で妻を呼んでいるのが聞こえた。94年5月。旅先のジャワ島の宿で、急に呼吸ができなくなって倒れた。精神的に追いつめられ、心身症の発作を起こしたのだ。

 自信を失いかけていた。自然の中で暮らす、たくましいバリの人々に比べ、自分の精神力のいかに脆弱(ぜいじゃく)なことか。生活のために絵を売るようになり、「売れる絵」が頭に浮かぶようになったのにも嫌気がさしていた。

 「自分はものを創(つく)ることができる人間なのだろうか?」

 胃かいようになり、その後も呼吸困難の発作を繰り返し、入院もした。

 そんなころ、何となく手に取ったのが、20本ほどの「男はつらいよ」のテープ。テレビ画面をビデオカメラで撮影したものを持参していた。学生時代から何度も見ていたのに、小さな液晶画面で、第15作のあのシーンを見た時、とめどなく涙があふれた。

 人が人を想(おも)う純粋な気持ち——。寅さんのリリーへの想いが絵に対する自分の想いと重なり、「それだけでいいんだよ」と語りかけられた気がした。

 「絵画制作は、寅の成就なき恋愛のようなもの。絵にあこがれ、描いても描いても手が届かない。でも、寅のように、そんな孤独を受け入れようと腹をくくったんですね」

 吉川さんは今もバリを拠点に、年に数か月、妻の地元の富山市八尾町のアトリエに滞在しながら、バリの風景や同市の伝統的な祭り「おわら風の盆」などをテーマにした絵を描き続けている。今も時々、不安に襲われることはある。そんな時、映画で見る寅さんの寂しい背中が、崩れそうになる心をそっと支えてくれる。

 吉川さんのアトリエに立ち寄って、その絵に魅了されたという筑波記念病院整形外科部長、生芝幸夫さん(51)は「光が浮かび音が聞こえてくるような絵。本物を見ているという喜びがある」と話す。自宅や病院に吉川さんの絵を16枚も飾り、忙しい仕事の合間などに眺めているという。

 「孤独を受け入れたことで描けるようになった絵が、寅のように人を喜ばせることができるなら、私が生まれた意味がある」と吉川さんは言う。「寅からは『お前の言うことは理屈っぽいんだよ』ってしかられそうですが」と笑いながら。

 (タイトルのカット写真は、松竹提供)

http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/tokyo23/feature/tokyo231217264378697_02/news/20080729-OYT8T00155.htm