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2008年07月28日(月) 20時24分

「自棄・無気力」の闇の中で自分らしく生きるオーマイニュース

 毎日のように無差別殺人のニュースを耳にします。荒川沖駅、秋葉原、岡山駅、愛知のバスジャック、そして今度は八王子。

 しかも、供述は皆、口を開けば「誰でもよかった」。この先の未来が開けていた多くの人々の人生があまりの身勝手さで奪われたのです。絶対に許されることではありません。

 それをふまえたうえで、こうも「誰でもよかった」という、許されない主張の無差別殺人が頻発すると、報道に接する私たちも「怖い社会になったものだ」とか、「道歩くとき気をつけなきゃ」とか言ってる場合ではなくて、真剣に今の社会を覆う闇と向き合わなければいけないかもしれないと思いました。

 特に八王子の事件は、ちょうど、私の活動が地元(北九州)のニュースで取り上げられ、「やけっぱちにならず小さな幸せを見つけて」と語った矢先のことでしたので、私にとっては印象的でした。私の一意見かもしれませんが、今だからこそ皆で考え、向き合っていくために記事として発信したいと思いました。

 よく考えてみれば、「自棄・無気力」の闇は相当深いような気がします。例えば、仕事のイライラなどで家に帰って「疲れた」「しんどい」ばかり口にする大人を見た子供は、「生きるってすばらしい」とは思えないのではないでしょうか。それどころか「生きるっていうのはしんどいことばかりなんだ」って思うかもしれません。

 実は、今回の一連の報道に、「ちょっと待て」と思うことがありました。

 “容疑者の逃避人生”などと言って、不登校だった、引きこもりだった、などという話がメディアで紹介されていました。

 私は中学校はほとんど不登校でしたし、中学卒だし、高校に入っても1カ月で退学したし、引きこもりにもなったし、ましてや自殺までしようとしたわけです。

 不登校は落伍者でもなんでもなく、ちょっと一息つきたいだけ。

 ただ、私は羽休めの引きこもりの時期に、何でもいいから何か自分のやりたいことを気長に探しました。

 母は引きこもっているときも「大丈夫」といって温かく見守ってくれましたが、その代わり、やりたいことを見つけたのに外に出ることを怖がって躊躇したときには、厳しく叱りました。

 ここがある意味ターニングポイントだと思います。社会を覆う闇のせいにして、犯人が許されるわけでは決してありませんし、言い訳にもなりません。

 なぜなら、自分のやりたいことを気長に探して、見つけたら、そこからは自分自身が道を切り開いていかなくてはならないからです。それに共感した人が支えとなってくれ、人の輪ができていくのです。

 私はリコーダー片手に活動して5年になりますが、それは、引きこもりからの立ち直りの歴史でもあります。人の本当の強さは「立ち直り」にあるのだと私は思っています。

 挫折したっていいのです。ただ、挫折したときに自分と向き合えるか、自分らしくいられるか、自分らしさを時間がかかっても見つけられるか、そして見つけたらゆっくりでもいいから1歩を自分から踏み出せるか。ここが重要だと思います。

 皆、そうやって懸命に生きているのです。それをかなぐり捨てて暴走して他人に刃を向ける…… だからこそ卑劣であり、許されないのです。

 大人も「しんどい、疲れた、どうせ頑張ったって」と口を突くことはあるでしょう。むしゃくしゃすることもあると思います。けれども、そんなときこそ良いこと探し。ちょっと足元に目を落とせば、小さな幸せ、ささやかな幸せ、楽しかったこと、うれしかったことは結構転がっていると思います。

 それを拾い集めて、ゆっくり生きていきませんか? こんな世の中だからこそ「生きてるって結構いいもんだよ」ということをもっと伝えてほしいと思います。

 私に大したことができるわけではないけど、だからこそリコーダーの音色とともに、語り続けて行きたいと思います。勝手な使命感かもしれないけど、こんな世の中で、自暴自棄になって命を捨てようとした私が、伝えられる精一杯のメッセージです。

 ゆっくり生きてもいい。立ち止まってもいい。でも道は、自分の足で歩いていくもの。それが強さであり、それが生きていると言うこと。そこから幸せは生まれるのだ──と。

(記者:原田 耕一)

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