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2008年07月17日(木) 17時29分

奇祭「和霊さま」宇和島の夏祭り【愛媛】ツカサネット新聞

観光目的で起こった祭りと違って、鎮守の神を奉る祭りはどこも地方色豊かでオリジナリティ溢れるものばかり。私の故郷、愛媛宇和島にも奇祭とよばれる祭りがあり7月の22〜24日にかけて行なわれる。和霊さまと呼ばれるこの祭りは元々は24日が本祭で、22・23日はその前夜祭として昭和になってはじまったものだ。地元では「うわじま牛鬼まつり」という名称である。少し前は「和霊大祭」と呼ばれていたが、一部政党を通して「宗教色が強い」という指摘を受け、今の名称に変わったという話がある。

奇祭たる所以として、この祭りの起こりが挙げられる。
和霊さまは、宇和島藩の家老、山家清兵衛(やんべせいべえ)を奉るもので、藩主や伝承の神でなく一家老が祭られていること。
日本中見渡して鎮守の神様や藩主ではなく家老を祭る地方は稀である。

そしてこの祭りを彩る山車の一つ、頭が鬼、体が獣、尻尾が剣で6・7メートルの大きさをほこる牛鬼が神輿の練り歩きの前に露払いのごとく現われること。
この牛鬼は「枕草子」に「名おそろしきもの——牛鬼」と記され、近隣の村にはほら貝を鳴らすような声をあげて走り回る牛鬼を山伏が退治した説話がある。この声を似せて牛鬼とともに竹ぼらを鳴らして祭りは練り歩く。

また、神輿をお召舟に乗せ海上渡御(とぎょ)を行い、おか(陸)に上がった後、川に入り中央に立てられた10数メートルの竹の先に付けられたお札を若者が奪い合う。この時、幾十にも重なった松明の炎が川を埋め尽くし、金色の神輿、水、火が一体となって鎮魂と共に、五穀豊穣を願う走りこみと呼ばれる神事が執り行われる。

この海・川・陸を一体として行なわれる神事が独特も和霊様は、この地より四国地方に和霊信仰として広がっており、坂本竜馬の先祖である土佐の豪商・才谷屋の坂本家も宇和島から分霊され和霊神社を祭っている。坂本家では「氏神」として敬い、幕末坂本竜馬も土佐藩を脱藩する際、高知市神田の和霊神社に無事加護を祈り、水杯をもって決別の覚悟をきめたとされている。

今では、10数メートルの竹先のお札を取るものは誰か予め決められており、この御神竹を昔は奪い合っていたが信者に配られるようになった。川の中に刃物を持ち込む者がいたり、御札の奪いあいが事故につながることがあることから、今のようなかたちになったのだが、祭りのフィナーレに行なわれるこの行事は、神事として荘厳な空気を今も昔も変わることなく漂わせる。なお神輿は3基でるのだが、この3つは清兵衛、3人の子供、塩谷内匠(しおのやたくみ)親子が御動座されている。

ところで、何故伊達家宇和島藩の家老が神社に祭られ今に伝わるのか。
市川猿之助が復活上演した歌舞伎演目でもある『君臣船浪宇和島』の題材となった、宇和島騒動が事の起こりである。

元和6年6月29日深夜、初代藩主伊達秀宗の家老、総奉行山家清兵衛講頼の私邸が何者かに襲撃され、清兵衛をはじめ長男・二男・三男および縁故者など9人が殺害された。
山家清兵衛(やんべせいべい・きんより)は産業の拡充、民政の安定に手腕を発揮していたが、伊達正宗から借受をして入封だったことで、その返済を含め財政対策に苦慮していた。家臣の俸禄の削減、隠居料設定による本藩からの早期自立の計画を実施しようと試みたが、大坂城石垣工事を受け、いっそうの財政引き締めが家臣団の不満を増幅させ、総奉行清兵衛を排撃する一派が起こり、山家清兵衛暗殺に至ったとされる一連の事件を宇和島騒動という。

後、襲撃に参加した関係者に不慮の事故が続発し、たたりの噂が広まった。藩主秀宗も罪を苦慮し、その霊を鎮めようと祠を建てた。小祠は山頼和霊と呼ばれるようになり、領内外の住民の信仰を集め和霊神社として今日に至っている。これが祭りの起こりである。
和霊神社は山家邸宅跡地と共に、享保16年(1731)須賀川沿いの鎌屋城跡に5代藩主村候が本造り神社が建立した。


ここまで読んでいただいて、矛盾点があることにお気づきだろうか。
山家清兵衛は、厳しい引き締め策で苦しむ家臣の一部が暗殺した。にもかかわらず、藩主秀宗も罪を苦慮し、その霊を鎮めようと祠を建てた。という点である。

子供の頃、祖父母から言い伝えられた和霊様は次のような話だった。
「やんべさんが、質素倹約で財政立て直しをしようとしたが、我慢ならずに殿様の家来らがやんべさんを殺した。」
山崎正和・丸谷才一対談集「日本の町」の中の「宇和島ー海のエネルギー」にも同じような会話が収録されている。

しかし現在、仙台藩第四代藩主伊達綱村から宇和島第二代藩主伊達宗利に当てた書状が発見され、この宇和島騒動が初代当主による上意であったと判明している。
初代当主伊達秀宗の知るところの家臣団による暗殺であり、山家清兵衛は忸怩たる思いがあったろう。
実際、伊達政宗はこの騒動を知り激怒、宇和島を勘当。しかし後に仙台から宇和島に養子がきて仙台と本家争いの騒動を巻き起こすことに。

ところで、その仙台ではどのようにこのことが伝えられているか。
仙台では、「七夕の時、雨が降るのは、七夕の夜に死んだ清兵衛公頼が仙台を恋しがるから。」といい、仙台七夕で雨が降るいわれとなっている。明治に旧仙台藩士・山家さんが屋敷を開放して繁華街を作り、これが「仙台一番丁」のはじまりで、生き残った山家一族が屋敷にまつった「和霊神社」は今、一番丁フォーラス屋上にある。

決して神々しくも無く、荘厳な歴史絵巻ともいえない和霊様の起こりであるが、上意など触れられることなく、藩政改革の先駆者であり民衆の義人として語られ続け、今も鎮魂の祭りとして受け継がれている。


「日本の町」丸谷才一・山崎正和
1987年6月 文藝春秋より単行本刊行。

宇和島市観光協会・観光ガイド

YouTube「うわじま牛鬼まつり」





(記者:竹山壽)

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