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2008年07月14日(月) 17時30分

浅草に子ども時代を思い出すオーマイニュース

 家内が浅草で会議があると言うので、「どぜう鍋」でも食って、久しぶりに浅草見物でもしようかと同行することにした。

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 都営地下鉄浅草駅で「ほおずきの鉢」をぶら下げた年配者と行き交ったために「ほおずき市」の期待も出てきた。ちょうど今時分なのだ。

 雷門から仲見世(みせ)を通り、観音堂前で両側に数十軒のほおずきの露店が出ている。売り子が「今日が最後でーす。縁起物でーす」と「ほおずきの鉢」をかざして呼び込んでいる。「いくらするの?」と聞くと「どの店も1鉢2500円です。風鈴がつきます」という。

 わが家と娘の家で2鉢買う予定でいたが、高すぎるので1鉢を使い回すことにした。

 「ほおずき」と言えば子どものころ、田舎ではどの家の庭先にも植えていた。実はミニトマトのようだ。トマトと同じだがナス科らしい。

 実は赤くなったころ、中の種を取り除き、口に入れてもむようにすると「グビー、グビー」という音がする。女の子のおもちゃであった。

 この種を取り除くのが難しく、すぐ口のところが破れ使い物にならなくなる。女の子はうまく取り除くことができていたものだ。口でうまく音を鳴らしていた。私は、よく音が鳴るのものをもらっても、うまく鳴らすこともできなかったことを覚えている。

 なぜ、各家に植えてあったか知らないが、恐らくどの部分かが薬用になるために植えていたのだと思う。昔は簡単な病気やけがに使う薬用植物を自分たちで栽培していたのだ。

 売り子が言っていた縁起物だという理由はわからないが、7月9〜10日にお参りすると4万6000日(約120年分)、毎日お参りしたのと同じ御利益があるらしい。これが「ほおずき市」と重なって縁起物になったのか。

 昼食は老舗の店で「どぜう鍋」を食べることにした。

 店は座敷しかなく、今も下足板が使用されていた。履物の管理と伝票の管理もされているようだ。

店員:いらっちゃいませ。何にしますか。

私:どぜう鍋2人。

店員:ほね抜きにしますか、ほねつきにしますか。

私:……。

店員:骨が付いたものか、骨を抜いたものか……。

私:もちろん、骨付きをください。

店員:あと、ネギ? ゴボウ? 汁物? 漬物?

 矢継ぎ早の注文取りだ。

私:どぜうの産地は?

店員:東北です。茨城物もあるし、関東物が多い。今は農薬を使わないからどこでもとれます。

私:ネギとゴボウの取り合わせって面白いですね。

店員:どぜうは泥臭いでしょう。ゴボウとネギで泥臭さを消します。ネギの嫌いな人でもここでは食べられますよ。

 注文が終わると比較的早く漬物が来て、次いで、鍋が来た。

 「すでに料理してあるので、煮立てばすぐに食べられます」という。圧力鍋で煮たのか、身も骨も柔らかい。

 10cmほどに刻んだゴボウ1鉢と細かく刻んだネギが1箱運ばれてきた。ネギが終わりそうになると、残ったネギを鍋にかき入れて、お代わりがもう1箱運ばれてきた。こんなに食えるのかと心配したが、不思議に全部食えたのには驚いた。

 このドジョウも子どものころは、田んぼの水路に行って泥をかき上げるといくらでもとれた。帰って水で泥抜きをして鍋で煮て食べた。しかし、それだけではまだ固いのだが、終戦直後の食糧難の時期である。うまかった。

 田んぼと言えば稲刈りが終わったあと、田んぼのできた穴をほじくってタニシをとり、これもおかずにして食った。結構おいしかったのを覚えている。

 1鉢2500円の「ほおずき」は昔は庭先に植えられていた。1人前2500円の「どぜう鍋」も昔は田んぼでいくらでもとれ、ただで食えた。

 昭和25年ごろの話である。今のような便利さはなかったが、自然と共存できたよき時代であったことを思い出す。

(記者:矢本 真人)

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