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2008年06月25日(水) 12時16分

合掌する時、脱帽しない若者オーマイニュース

 先日起きた秋葉原の無差別殺傷事件は、日本中を震撼(しんかん)させた。テレビのニュースやワイドショーでは、事件の背景や分析報道を連日のように展開している。先日、事件のあった交差点近くに設けられた、献花台に手を合わせる一般市民の様子が映し出されていた。

 だが私の目は、映像のある1点にくぎ付けになった。献花台に手を合わせていた人の中に、なんと、帽子をかぶっている人がいるではないか。

 映像では、少しもふざけたところ様子もなく、目を閉じ静かに合掌しており、ごく普通の若者のように見て取れる。見間違いかと思って目を凝らして再確認してみたが、間違いなく帽子をかぶって合掌している。なんというミスマッチであろうか。私はその光景に、えも言われぬ異様な感覚に襲われた。

 常識的には、墓石や祭壇の前で亡くなった人を悼み手を合わせる時は、帽子を取るのが基本だ。日本人であれば、これは幼い時から体に刷り込まれているはずだ。間違っても、帽子をかぶって故人や御先祖さまに相対するということは考えられない。合掌をしている若者が誠実そうに見えるだけに、このギャップを理解するのは難しい。

 帽子の着脱に関するマナーの低下は、これだけではない。例えば、室内に入る際や、飲食時、国旗掲揚時などでも、時々散見する。この場合は、当然ながら脱帽することが基本になる。

 その中でも、室内では帽子を取るのは原則中の原則だ。日本の住宅が畳の中心の和風であった時、日本人のほとんどは靴を脱ぐと同時に、帽子も取ることが訓練されていた。そういえば、帽子は脱ぐともいう。おそらく日本の文化では、家の中に入る時、靴を脱ぐということと、帽子を脱ぐということは同じ意味を持っているのだろう。

 だが、ほとんどの建物が西洋化されている現代になって、様子が変わってきた。現代建築では、学校や中小の病院などを除き、建物(室内)に入る際、靴のまま入る設計になっている。この結果、これら建物の中に入る際の、帽子を脱ぐ必然性が薄らいでしまったのかもしれない。

 それでも、帽子が許されるホテルや病院のロビーや廊下でも、部屋や診察室、病室などは、一転、帽子を脱ぐことが求められる。この辺の微妙さは、若い人にはなかなか分かりづらいのかもしれない。

 これに拍車をかけているのが、ファッションであろう。

 室内で帽子を脱ぐという習慣は、西洋の文化から生まれた。その場合でも、女性の帽子だけは免除された。女性の衣装と帽子は一体のものと理解されたからだ。これを根拠に、ファッションの一環であれば、室内で帽子をかぶることは許される、という通説ができあがった。これが際限なく拡大解釈され、いまや、老若、男女問わず、室内での帽子着用が、ありとあらゆる場所で幅をきかしている。

 このように、時代や生活様式の変化とともに、帽子の着脱に関するマナーがあいまいになってきている。それだけに、マナーを指導する家庭や学校の教育の重要性が増してきたといえそうだ。

 だが、先日見た学校の様子を伝えるテレビ報道に、その淡い期待は一瞬についえた。その映像は、下校時の終わりの会であった。教師が、1年生らしき児童に帰りの話をしている。その話を聞いている子供たちの頭には、なんと、帽子が乗せられているではないか。児童の安全を図るための指導だと思うが、児童らは教室の中から既に帽子をかぶっているのだ。私が異様に思った、前述の、脱帽しないで合掌した秋葉原での光景は、何を隠そう、学校教育の賜物(たまもの)であるのかもしれない。

(記者:藤原 文隆)

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