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2008年06月22日(日) 13時39分

古代大阪のチーズとヨーグルトってどんな味?オーマイニュース

 現在の大阪市中心部の東側に位置する「上町台地」の西側は、難波八十島(やそじま)といわれるくらい、島の多い入り江でした。

 『日本書紀』安閑天皇2年の条に「牛を難破(なには)の大隅嶋(おほすみのしま)と媛嶋(ひめしま)の松原(まつばら)に放て」と勅(みことのり)したことが出てきます。前代の継体天皇が福井県の方から河内(かわち)の馬飼いに迎えられたというエピソードからみても、このころ牧畜が盛んになったのでしょう。そして、さほど起伏がはげしくない2つの島は、周りが海で牛が逃げ出す心配もなく、放牧に適していたのでしょう。

 今はもう全ての島が大阪平野になってしまって、島の痕跡は地名だけです。現在、淀川と神崎川に囲まれた地域、大隅は東淀川区、姫島は西淀川区に名を残しています。

 その大隅に、牛の放牧跡を訪ねました。

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◆大隅(おおすみ)神社

 東淀川区の東の方、現在の住所表示では、大隅(おおすみ)・江口(えぐち)・大桐(だいどう)・大道(だいどう)に分かれてしまっていますが、その辺りが『日本書紀』にいう大隅嶋のようです。そして大桐5丁目に大隅神社があります。

 その本殿に向かって右奥に、「禅宗曹洞派 乳牛山 大道寺跡」と書いた石碑があります。どうやらこの地はずっと「乳牛牧(ちちうしまき)の荘」と呼ばれていたようです。

 この大隅神社の境内には、赤い鳥居の「天満宮」があり、そこに牛の像が祀られています。天満宮と牛といえばセットになっているものですから、何の不思議もありませんが、乳牛牧の荘という名を聞いてしまえば、なにやら意味ありげにも見えてきます。

◆乳牛牧跡の石柱

 大隅神社の西、大桐中学校の北に、「乳牛牧跡」の石柱と説明看板が設置されています。

 淀川郷土史研究者の三善貞司さんは、925年成立の『延喜式』に「牧の人たちは牛乳や蘇(そ=チーズ)、酪(らく=ヨーグルト)などを製造、毎年4歳から12歳までの母牛7頭と、子牛7頭を典薬寮の乳牛院に送ることを義務づけられていました。とてもおいしい味や、何ものにも代えられない楽しみを『醍醐味』といいますが、これは元来、蘇や酪の味のことです」と解説なさっています。

 平安時代の醍醐天皇の諡(おくりな)の意味を考えたことがありませんでしたが、チーズやヨーグルトのことだと考えると、ちょっと親しみを感じます。

 『日本書紀』欽明天皇にも、百済渡来人と牛乳の話があるし、平城宮跡や長屋王の館跡から出土した木簡にも、蘇のことが書かれていますから、飛鳥・奈良時代にも、上流階級の人にずいぶん喜ばれたハイカラな味だったようです。

 牛乳牧の地名は近代まで残り、現在の地元小学校である大隅東・西小学校も、1926年までは「乳牛牧尋常小学校」という名だったそうです。

 ここでは、牛乳のためだけの牛飼いのような伝わり方ですが、おそらく淀川をさかのぼる船を両岸から曳く労役にも使ったことでしょう。水運の要地であるという意味でも、淀川が大阪湾に流れ込む2つの島の位置は、牛を飼うに適していたようです。

 この石柱のある辺りは現在、「せせらぎの遊歩道」と名づけて整備され、木陰に子どものはしゃぐ声が聞こえました。

(記者:塩川 慶子)

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