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2008年06月18日(水) 11時43分

あれから1カ月、今年のカンヌは本当にレベルが低かった!?オーマイニュース

 あっという間に1カ月。といっても四川大地震ではなく、カンヌ映画祭の開幕からの話。

 5月14日に開幕し25日に閉幕した第61回カンヌ国際映画祭は、新しい総代表ティエリー・フレモーの下でカンヌ映画祭のこれからの進み方を示すことに成功した。

 地味だ、暗い、出品作の完成度が低い、常連の作品が優遇されているのではないか、などいろいろ取りざたされた今年。たしかにそう言われてもしかたない部分もあったと思う。しかし、終わってみれば、それも含めてフレモー体制の決意表明だったのだ。

■その年の選考委員の気分を反映

 カンヌ映画祭はマーケットも含めて世界最大の上映本数を誇る映画祭である。

 それだけに出品作の選考にも時間がかかる。映画祭の終わった翌日から次の年の選考が始まると言われるほどだ。映画祭終了から次の1年間に完成された作品が選考の対象になるのである。

 ということはその1年間の世界の気分が、作り手を通してカンヌ出品の映画に反映される、と私は考えている。

 選考には、自己推薦で応募されてきた作品以外にも、各地域や国で映画祭から依頼された選考委員が推薦する作品が集まってくる。この段階で、その年の選考委員の気分というものが反映される。

 さらに映画祭は世界の映画作家たちに調査を行い、カンヌ映画祭で製作国以外の初上映をできる新作があるかと聞いて回る。世界を反映するにはハリウッド映画も欠かせない。

 観客を集め、世界のプレスに注目されるためにもアメリカのサマーシーズンのオープニング大作のワールドプレミアをカンヌで、という誘いもする。

 昨年の「オーシャンズ13」、今年の「インディ・ジョーンズ4」のように。どんな作品でも、製作者・監督たちはその作品にとって役に立ちそうな映画祭に出品したいし、映画祭は話題になる作品のお披露目を狙うし、駆け引きが行われるわけだ。

 こうやって集められた作品をカンヌ映画祭は本選(コンペティション)、招待作品(アウト・オブ・コンペティション)、ある視点部門に振り分けていく。

 同時に、カンヌ映画祭本部とは別組織になっている並行週間である、“監督週間”と“批評家週間”の作品選びも行われ、1年間の世界の新作が色分けされていくのである。最近はいろいろな形での上映が増え、とても体ひとつでは見切れないほどになっている。

■フレモーの考える映画祭の指名とは?

 昨年(2007年)の60周年までは、最後の最後に作品決定をする責任者は会長のジル・ジャコブだった。その下にアーティスティック・ディレクターとして、ある視点部門の責任者であるティエリー・フレモーがいた。

 昨年8月、このフレモーが総代表という地位に着いたことが報じられ、今年、61回目は彼の責任において作品選定が決定される最初の年になった。

 今年の総カタログにはフレモーによる“われわれの映画祭”という一文が掲げられている。

 そこには世界や時代の変化によって映画が越境していき、何がよい映画であるのかの評価が変化していると書かれている。そしてカンヌは新しい人々に開かれていること、それこそがカンヌの目指すところであることが歌われている。

 小さな国の無名の映画作家をカンヌで紹介し、彼の可能性を引き出すこと。彼の国の映画界や映画人を元気付けること。新しい視点を見せることで世界の映画人に刺激を与えること。それが映画祭の使命だとフレモーは言う。

 シンガポールとフィリピンのように初めてコンペティションに選ばれた国もあるし、カンヌのコンペ部門は初めてという監督の作品が半分を占めた。30歳代の若い監督も6人いる。

 政治とは一線を画すという建前があるので、フレモーも口にはしないが、この数年のカンヌは、映画は社会や時代にコミットするものだと身を持って示してきた。それは今年のコンペティション作品にも表れている。

 作品の半分は社会の底辺に生きる人々を描き、残りのそのまた半分は社会問題をモチーフにしている。最後に残った4分の1は、食うには困らないが人間関係や心の問題に悩む人々を描くのだ。それが、世界の今、なのである。

■プログラムの並べ方で気分を導いた!?

22本のコンペ作品中14作で未成年の登場人物が主要な位置を占めているのは、社会のゆがみの犠牲になるのは若者や子どもだから。子どもは未来を生きる存在だから希望そのものだと言われてきた。しかし、今年の作品では絶望の象徴のようにすら見えた。貧困や親の無関心のため、ストリートに出た子どもたちは教育される機会を失う。ストリートで学ぶのは現実を生き抜く掟。弱肉強食の現実社会では腕力と金が頼り。未来より今。子どもの命など使い捨てにされて、誰もそれを気にしない。……これが現実か……。

 そんな気分に打ちのめされていたところに現れたのが「アントレ・レ・ミュール」である。

 5月24日の午後4時の回にリュミエール劇場に現れた24人のはじけた15歳の少年少女たちに、どんな現実も跳ね返すエネルギーを見た。子どもと真剣に対峙しようとする大人や社会があることの大切さをこの作品はまっすぐに見せた。観客も記者たちも、そして審査員たちもこのまっすぐさに拍手を送ったのだ。そして、パルムドール。この上映順、位置は昨年の「もがりの森」と同じ。カンヌ映画祭はプログラムの並べ方で、観客や審査員、記者の気分を導こうとしたのではないかと、深読みしたくもなる。

 カンヌは最終的に審査員の合議で賞を決めていく。毎年合議の進め方は審査員にまかされ、審査員長の個性が結果を左右することもあるようだ。だから今年は、審査員長がショーン・ペンだし、昨年はアメリカはずしをしたし、クリント・イーストウッドはまだパルムドールを獲っていないし……と、イーストウッドの「エクスチェンジ」にパルムかなという説もあったし、3回目のパルムで話題作りに「ロルナの沈黙」という説もあった。

 誰も注目していなかった「アントレ・レ・ミュール」のパルム受賞だったのである。が、私にはどうもフレモーのしてやったり、だったのではないかという感じがぬぐえない。

 この感じが当たっているかどうかはまたしばらくカンヌに通って検証していくしかないのだろう。楽しみなことである。

(記者:まつかわ ゆま)

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