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2008年06月18日(水) 10時50分

秋葉原無差別殺傷事件 “記念撮影”する傍観者たち産経新聞

 こんな会話が耳に飛び込んできた。

 「すごいの見てるんだよ。血も撮れたかも。いますぐ送るね」
 「倒れてるところ見たよ。ブログに載せようか」

 8日午後2時すぎ、東京・秋葉原で無差別殺傷事件が起きた直後だった。高架になっているJR秋葉原駅前の歩行者用通路に、多くの人が群がっていた。ちょうど事件現場が見通せる場所で、われ先に携帯電話をかざし、現場を撮影しようとしていた。

 その多くは20代とみられる若い男女。電話で様子を伝える人もいれば、撮った写真を送信しているのだろう、画面を見ながら親指をせわしなく動かしている人たちも。ひとしきり写真を撮ると、何ごともなかったかのように、その場を立ち去っていく。

 それは、妙に冷え冷えとした狂騒だった−。当時、現場の路上にいた男性会社員(36)も「(周囲の人々の様子は)興奮というより、冷めた感じで不気味だった。『自分には関係ない』という空気を強く感じた」と振り返る。秋葉原に頻繁に通っている彼は、「アキバに集まってくる若者はアニメやゲームといったメディアで死体を見慣れている。しかもアキバという“劇場”で起きたから、リアリティーに乏しく、虚構の出来事のように思えたのでは」と話す。

 現場に無造作にレンズを向けていた彼らの姿からは、被害者の痛みに対する想像力は感じとれない。自分や家族が刺されたかもしれないという恐怖感も伝わってこない。どこか異様な風景だった。

 ■別人格の“軽さ”

 携帯電話などデジタル機器が普及し、インターネット環境が整ったことで、メディアの姿は大きく変わった。掲示板やブログなどを使って、誰でも情報の発信者になれる時代。そんなメディアの変化は、人々の価値観もいやおうなく変えつつある。

 現実感や当事者感覚に乏しい人が増えているのは確かなようだ。東大大学院情報学環の西垣通(とおる)教授(情報学、メディア論)は「3年ぐらい前から、誰でもブログが簡単に作れるようになったことと関係があるのでは」と話す。

 西垣教授は「ネット上では、別の人格になりきって注目されれば、自信を取り戻したり、劣等感を解消することも可能」とブログの特徴を指摘したうえで、こう警告する。「ネット上のバーチャルな世界が本来の自分の姿だと錯覚するようになると、生きている重みを実感しづらくなってしまう」

 一方、ネット上に限った問題ではないと指摘するのは立教大社会学部の是永論(これながろん)教授(情報行動論)だ。「ブログやネットが『想像力』を奪っている、というより、むしろ今まで『公共の場の発言』がどのような影響力を与えるか、きちんと考えたり訓練する場が乏しかった」。インターネットが仲間内だけの対話ツールではなく、不特定多数に向けられたメディアで、一定の「公共性」があるという感覚は、たしかに薄いのかもしれない。

 ■惻隠の情どこへ?

 東工大名誉教授の芳賀綏(はが・やすし)氏も、最近の社会動向についてこう指摘する。「喜怒哀楽に心を揺さぶられない人が増えてきた。自分のことでなければ心が痛まない、災難が降りかからなければいいという『傍観』の立場が許されるのが最近の風潮。その一端が今回の事件には顕著にうかがえる」

 現場での“記念撮影”について、芳賀さんは「『義憤』『惻隠(そくいん)の情』といった日本人の精神をよく表す言葉が忘れ去られ、日本人としてまっとうな感覚が失われている」と憤る。

 他人の痛みに思いをはせる−。そんな良識を、誰もがなくしてしまったわけではないと思いたい。事件後、現場近くに設けられた献花台に手を合わせ、涙する人々の姿もあった。(中島幸恵)

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