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2008年06月17日(火) 17時07分

「旅に行かないか?」 うつの身内を誘ってみたオーマイニュース

 自分が「鬱(うつ)」だと知った時、初めて直面することがある。

 自分自身との「対峙」である。

 普段、人はなかなか“自分自身”を見つめることがない。日常の生活にフォーカスが注がれ、そこに自分を置く。生活自体に視点は運ばれるが、“自分”に視点を運ぶことはほとんど少ない。

 「あれもやらなきゃ、これもやらなきゃ」と、週末の休みだろうと、何かしらつきまとわれることが多い。

 私含め、多くの現代人の眉間や背中に貼りついている“忙しい”と言う言葉は、自分を自分自身から遠ざけてしまっている渦中にある。

 「忙しい」というのは、時に大切なことでもあるが、しかし、そこは大きな落とし穴がある。

 “心を亡くす”と書いて1文字の構成になる「忙」の文字が語っているように、心が亡くなる(無くなる)現象が起きるのだ。

 体は至って元気であっても、心がついてこない。気持ちがどうもムヤムヤしている。体調はおかしくない。熱がある訳でもない。でも自分の様子がどうもおかしい。

 何かが働いていない……。それは「心」が働いていないのだ。

 人間は、この「心」への問いかけが亡くなった(無くなった)時、瞬時に対応が難しくなる。

 私自身にもかつて経験があった。

 以前、会社員をしていた時、毎日がとても忙しかった。出勤は朝早く、帰りが遅い。家には寝に帰るだけだった。休みの日にも、何かと呼ばれることも多く、休日も緊張の糸が緩まなかった。

 「何をしているのだろうか?」、「家(アパート暮らし)のことが何も出来ない」、「遊びに行くのもかったるい」 自問自答を何度も繰り返していた。

 そんなある日、同僚が語りかけてくれた。

 「ハナ、お前大丈夫か? 最近何か上の空っぽいよ!」

 この質問にはいささか戸惑った。「え、別に。全然元気だよ」

 仕事は朝が早く、帰りが遅くとも、体調に問題はなかった。すこぶる元気だったのはウソではない。けれども同僚の言う「上の空」という言葉に私は大きく反応した。

 「上の空」だった時、私の「心」は全く働いていなかった。仕事は真面目にこなすも、それは表面的な部分だけだった。ただ日常生活をこなすだけであり、自分自身を労(いた)わるということは何一つなかった。仕事人間、仕事ロボットの自分を作り上げ、動かしていただけだった。

 その事実に気づいた時、私は決めた。

 自分を労わらなきゃ、だめだ。これじゃ何も変わらない。

 私はたまっていた有給休暇を使い、単身で海外へと「旅」に出た。自分を労わり、自分を見つめる必要があった。「上の空」は、私にとって大きな閃きとなる言葉だった。

  ◇

 私は、うつを抱えている身内の様子が少し変わってきたのを見て、大胆に誘った。

 「一緒に旅に行かないか?」

 持っていたいくつかのパンフレットを見せながら、身内に語りかけた。

 「今のままでは何も変わらない。ここ1か月の会話を通して、いささかプラスの兆しは見えている。続けていけば、それ相応の変化にはなる。けれども、根本に突き刺さるものが見いだせていない。自分と完全に対峙するには至っていない」

 身内に対して、非常にきつい一言だった。表情からも、落胆するのがうかがえた。

 だが、ここで真に自分と対峙しない限り、明るい未来はやってこない。兆しは見えかけているが、感情の起伏が激しく、「死」という言葉を吐いている以上、完全な対峙とは言えない。

 何かアクションをうたなければ、このまま見えない闇に吸い込まれていく感じがあった。

 私自身、戸惑いはあった。なぜなら、これが完全な解決策となるという確信はないからだ。他に方法があるなら、それで解決策を見出したかった。だがこれしか思いつかなかった。「上の空」の後の旅が私自身にもたらしたものが、非常に大きかったからだ。

 「日常から遠い場所に身を置き、自分を俯瞰する」

 このやり方によって、私は人生を大きく変えた実感がある。あの時の「旅」がなければ、私は今も、悶々と出口のない迷路をひとりさまよっていたかもしれない。

 どう伝わるか分からない。私の価値観がそのまま身内の心を動かすかどうかも分からない。だが、私はあえてリスクを冒す領域に身を置きながら真剣に語った。

 3日後、身内が私に言ってきた。

(記者:花嶋 真次)

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