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2008年06月17日(火) 17時05分

南国のビーチでも無言の受験ロボットオーマイニュース

 沖縄のある離島から、友人が所用で上京した。

 「このまえ、オレのビーチに、東京の名門、Z高校の生徒たちが来たんだよ」

 そこのOBなら私の友人にもいる。有能な人格者である。もっとも、40年も前の卒業生ではあるが。彼の後輩たちが、はるばる沖縄の離島まで遊びに行ったのか。いいことだ。

 先月、竹富島の西側の有名なコンドイ・ビーチに行ったときのことを思い出した。15歳くらいの少年少女のグループが、実にたのしそうに海で遊んでいた。引率の教師と思われる男性が、浜で彼らを見守っている。

 少女たちはきょう声を上げ、少年たちは「ナマコ採った!」などと大騒ぎ。時間を気にする生徒に向かって、教師が「だいじょうぶ、5時半集合だから、まだ1時間以上あるぞ」と言う。

 東の桟橋から石垣島に戻る最終便には間に合わないから、彼らはこの島に泊まるのだな、うらやましい、などと思った。

 だから東京の名門の秀才たちも、南国のビーチで開放感に浸ったことだろうと想像した。

 ところが、話は全く違ったのである。

 「まるで元気がないんだよ。オレがシュノーケリングの説明をしても、ろくに反応がないし、だいたい、生徒たちがお互いに会話がないんだ」

 おやおや、そういうことだったのか。想像はつく。この名門校は、東京の、中高一貫教育の男子校で、御三家の次くらいのランクに位置する。名門校といってもそれぞれの「校風」がある。この学校の場合、「のびのび」とは反対の方向に変化してきたのであろう。

 中高一貫というシステムが、おそらく「一流大学に卒業生をできるだけ多く進学させる」という目的に特化してしまい、この学校に息子を入学させる親も、その価値観において、学校と一致しているのだろう。

 「名門校」に子供を入れたいと考える親は、生まれたときから、いや多くは生まれる前から「受験対策」を開始する。あらかじめ敷いたレールの上を、親が決めた目的地に向かって走ることを「子供のため」として強いるのだ。

 生まれた子供は、ひとりひとり、別のキャラクターである。どんな素質を持っているか、どんな性格か、育っていく様子を見なければ分からない。

 ひとりの人間としての固有の特性を見ずに、親の価値観=エゴを押し付けることは、犯罪的とさえ言えると私は思っている。自分がその被害者のひとりだからだ。

 親が「ある価値観」を強烈な信念として子供に強要する場合、子供がそれに抵抗するのは極めて難しい。社会が都市化すればするほど、子供は親の経済力から離れて生きることは、ほぼ不可能である。私の場合、ひたすら「耐える」しかなかった。

 運よく、親(母)の期待に、おおむね応えることができたので、「悲劇」に至らずに済んだ、と私は思っている。それでも、社会的な「事件」にはならなくても、個人としては、親の呪縛(じゅばく)のせいで、さまざまに苦しんだのは事実だ。

 このうえなく美しい、沖縄の白砂のビーチで、青い海の中の色とりどりの魚たちと戯れることができるそのときに、期待に胸ふくらますこともなく、喜びに目を輝かすこともなく、仲間とはしゃぎあうこともなく、黙々と言われたことだけをこなす少年たち。

 彼らの頭上には、「大学受験」という重苦しい黒雲がおいかぶさっているのだろう、と想像した。それは「親からの期待」であり、「教師からの期待」であり、同級生たちとの暗黙の競争である。

 幼少から、おのずから発する興味、関心、好奇心などよりも、「受験に役立つこと」を優先させられ、遅くも10歳には受験塾に通い始め、わずかな自由時間は電子ゲームに費やされ、アスファルトの道と、コンクリートの建物と、灰色の空しか知らない都会の子供たちがいる。「感性」というものが育ちようがなかったのだろうか。

 思えば、自分には、幼少時代のすばらしい「原風景」があった。どこまでも広がる田んぼ。夏の夜は、無数の蛍が飛び交う。実りの敵であるイナゴを村の子供たち総出で、素手で捕まえて、学校の遊具などに換える誇り。

 秋には真っ赤なトンボが空を覆う。大人たちと山に入ってキノコを採って野外で豚肉と煮た鍋料理のおいしさ。自然の恵みと、さまざまな命の存在、生きることの楽しさ、そんな「直接的な体験」が、自分のどだいを支えていたのかもしれない。

 「生きることの喜び」を知らずに大人になったエリートたちが、「健全な社会」を築けるわけがないではないか。

(記者:安住 るり)

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