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2008年06月17日(火) 11時48分

悪意に満ちた社会で生きる希望とは?オーマイニュース

 6月8日の秋葉原通り魔殺傷事件の加藤容疑者と私は、同じ青森県出身です。同じように進学校に通い、卒業後、出世コースから外れ、ある意味純粋に自分のやりたいことを追求してきたという意味で、似たような境遇で生きてきました。

 そのため、彼があそこまで追い詰められ、自暴自棄になってしまう気持ちも全くわからないではありません。闇は、日常生活のいたるところで口を開けているのです。

 凶悪犯罪のニュースがここ数年、本当に多くなっています。奇しくも7年前の同日、大阪の池田市で何の罪もない児童や教師たちが殺されました。

 凶悪犯たちはたまたま異常な人格を持っていた、だからそういう異常な人間を手際よく駆逐して善良な市民を守ることが最重要課題だ、と考える方も多いことでしょう。

 でも、本当にそうでしょうか? 彼らと私たちは、もともとそれほど違いのない人間であり、ただ、たまたま生育環境や置かれている境遇によって、そこまで追い詰められてしまったのではないでしょうか?

 もっと言うと人間を「キレやすく」しているのは社会の方なのではないでしょうか? この国の生きづらさが変わっていかない限り、同じような事件は今後も繰り返されると、私には思えてしかたがないのです。

 6月7日、『ぐるりのこと。』という映画が公開されました。

 まさにその池田市小学校殺人事件や幼女連続殺人事件、地下鉄サリン事件など、90年代以降の日本を象徴するような凶悪犯罪の裁判が行われている法廷でテレビ向けの法廷画を描く仕事をしている男(リリー・フランキー)とその妻(木村多江)の10年にわたる愛の物語です。

 宮崎勤や宅間守といった被告人がとてもリアルに再現される一方で、日常生活のいたるところで彼らと全く同じ顔の悪意がむき出しになっている様が描かれます。

 「善良な市民」であるはずの主人公たちも(そして私たちも)、小さな罪を犯しながら生きています。白か黒かなんて幻想でしかなく、誰しも心に闇を抱えているし、たまたま死刑に値する罪を犯してしまった人たちと私たちは同じグラデーションの上でつながっているのです。

 「他者をかえりみない幼児的な自己愛」や「死ねばいい」という怪物のような悪意を生み出す社会。いったいどうしてこうなってしまったのか? と、この映画は静かに問いかけます。

 妻は子どもを流産で亡くし、日々の生活の困難に耐えられず、うつを患います。それを夫は辛抱強く支えます。結婚式も挙げていない、親にもきちんと認められていない2人ですが、何があってもとにかくいっしょに生きていこうとすること、2人で何かを生み出そうとしていくこと、そこにこそ希望があると、この映画は語りかけます。

 ハンパでなく、つらくてしんどい状況でも冗談を言える、ひたむきに「子ども」を育てようとする2人の姿に胸を打たれ、じわじわと深い感動がこみあげるはずです。

 頼るべきものはお金でもなく宗教でもなく、人と人とのつながりなのだというメッセージ。そして同時に、人と人とのつながりの中にこそ苦しみの源泉もあるということ。

 『ぐるりのこと。』はある意味、ナウシカやエヴァにも通じる哲学的な作品とも言えますし、1度ならず2度、3度観て分析する価値があります。今の社会状況を考える手掛かりとして、これからの時代を生き抜くためのバイブルとして、きっとこの映画は多くの人たちに示唆を与えてくれるはずです。


『ぐるりのこと。』
2008年/日本/監督:橋口亮輔/出演:リリー・フランキー、木村多江、倍賞美津子、寺島進、安藤玉恵、柄本明ほか/配給:ビターズエンド/シネマライズ、シネスイッチ銀座ほか全国にて公開
http://www.gururinokoto.jp/

(記者:後藤 純一)

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