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2008年06月15日(日) 13時32分

制度の是非を軽く論ずることができなくなった私──書評『死刑』(森達也著)オーマイニュース

 信じられないような凄惨な事件が起き、聞きたくないと思ってもその報道が耳に入ってくる。その何日も経たないうちにまた目を覆いたくなる事件が起きる。まるでそれが当たり前になってしまったかのような日常に、自分たちの生活へと忍び寄る不安感を消すことができない。

 「真面目な子でした」「いつも挨拶してくれる礼儀正しい方でした」──。

 ごく普通の隣人が引き起こす凶悪犯罪に、一体何を信じていいのかと思うほど一人ひとりの心の闇は深い。

 そうした中で、来年5月から裁判員制度が始まる。一般の私たちが民事ではなく刑事の、しかも重大事件の審判に参加する制度である。

 死刑制度に反対の人は裁判員に不適格であるともいわれる。現に今の民意は死刑の存置にあるといえるだろうし、新たな凶悪事件が発生するごとに「死刑でも仕方ないだろう」と言う声がマスコミからも近所の会話からも聞こえてくる。

 私たちの社会の目に見えない不安を払拭するには、現にある恐怖を取り除かなければならない。「抹殺」することによってその秩序を保っていくのである。

 映画監督である著者・森達也は、死刑存置論者と死刑廃止論者、双方の言い分を死刑が成立してきた歴史的過程から考察し、更に現在の死刑制度を支える国政の三権、さらに刑務官、教誨師、犯罪被害者などとの対話の中から見えてくる制度としての死刑の多面性を読者の前に示してくれる。

 それは彼の言葉で言う「ロード・ムービー」として読むものの胸に切なく響く。森は対談の相手に必ず死刑の存置か廃止かを問う。その制度の是非にこだわる対談でありながら、彼は、そこにある人間としての情緒にこだわらざる得ない自分や社会に気づく。

 「死刑制度を整合化する要素は論理ではない。情緒なのだ。ひとつは社会秩序の安定への希求。そしてもうひとつは、遺族の応報感情への共振。この二つの情緒に後付で論理が薄く塗られている。コアは論理ではない。スペアリブに喩えれば情緒が骨なのだ。だから肉を削ぎ落として骨を見極める」

 しかし法に基づく量刑は、その逆の視点でなければならないことも事実である。

 票が減っても死刑廃止の立場を貫く亀井代議士、死を与える仕事でありながら自死を防ぐために警護する刑務官、抱きしめることしかできない自分に無力感を感じながらも通い続ける教誨師など、森が訪ねる人々の誰もが、発する言葉の重みを確かめるかのように静かに語る。それを反芻しながら思い描く映像に、制度の是非を軽く論ずることができなくなっている自身がある。人間という存在への愛おしさは立場を超え、沈黙を生む。その一人ひとりの心を推し量りながら胸に迫ってくるものを禁じえない。それが森の語る情緒なのか。

 本書の最後に載せられた本村氏の言葉は、いつも通り礼儀正しく、そして絶望をみた人だからこそ語る新しい社会への希求がある。森の語る論理を捨てた情緒の世界から死刑を見、私たち一人ひとりの日常を振り返るとき、そこに本村氏の希求する社会の糸口も現れるかもしれない。そんな意味でも是非手にとってほしい1冊である。

『死刑──人は人を殺せる。でも人は、人を救いたいとも思う』(森達也著、朝日出版社、2008年1月20日刊行、1600円・税別)


(記者:曽野 千鶴子)

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