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2008年06月13日(金) 12時03分

死刑廃止論は犯罪者の論理だオーマイニュース

 6月6日の東京新聞で、死刑存廃の特集が組まれていた。

 そのなかで語られた凶悪犯罪被害者の心情は、圧倒的に死刑存置であった。かたや他人事の読者や職者は、世界的潮流とされる死刑廃止の論調と終身刑の導入である。

 こういった主張を見ると、廃止論者の多くは、死刑は国家権力による殺人であると主張してはばからないように感じられる。

 これは死刑という単語の意味を著しく捻じ曲げた論法であると思う。死刑の執行とは、犯罪者への刑罰権の行使にあたり、法によって裁かれる国家の権利と云うべきで、国家権力による殺人と表現するのは大きな誤りである。

 また死刑の定義が「生命を絶つ刑罰」である以上、懲役や禁固刑、あるいは罰金刑と同列の刑罰の1つである。その刑罰も「罪を犯したものに対する罰」であり、「国家が犯罪者に科する制裁」と定義されていることを、認識すべきである。

 先の光市母子殺害事件の差し戻し控訴審で、広島高裁が、犯行時18歳の被告に死刑を言い渡した。この時、さかんに引き合いに出されたのが「永山基準」である。

 「永山基準」とは、極刑を適用されることは原則ない未成年の重犯罪であってもやむを得ない場合は死刑の選択も許されるとし、その考慮の基準として(1)犯罪の罪質(2)動機(3)犯行態様の執拗性と残虐性(4)結果の重大性と人数(5)遺族の被害感情(6)社会的影響(7)被告の年齢(8)前科(9)犯行後の情状——の9項目を挙げたものだ。

 多くの論調はこの永山基準を「未成年者に死刑を適用するための指針」と捉えているようだが、これは法解釈の大きな落とし穴であって、重大な誤りである。

 一般的に、刑罰を考えるとき、軽微な罰金から自由刑(懲役や禁固)、それから極刑である死刑という段階がある。さらに自由刑の期限(有期や無期)の軽重を斟酌して、判決に導くと思われているが、これは犯罪者側から見た論理である。

 だが私は、刑法の適用は「人権を侵された被害者」側の論理が優先されなければならないのではないかと思う。すべての量刑を、より重い刑から逆算するのが憲法の下の平等精神ではないか。すなわち「永山基準」とは、「死刑も許される」場合の基準ではなく、「死刑を回避するための指針」ではないかと考える。

 「ひとの命を殺めれば、命をもって償い贖う」のが大前提である。

 少年の凶悪犯罪であっても、刑法が第一に優先され、少年法は斟酌のひとつとして適用するのが順位であるはずだ。

 一方で、現行法には死刑と無期懲役に著しい差があるため、保釈の無い終身刑の導入が議員主導で議論されている。

 だが、そんな単純な考えでは、被害者感情を納得させる量刑になるとはいえないと思う。

 何よりも大切なことは、犯罪者が犯した罪の重大さを認識し、刑罰を受け入れる中で、十分な悔悟の念や罪の償いを感受させることである。被害者に対する心からの謝罪が果たされて、初めて罪のあがないが形成されるといえるだろう。それが刑罰の本質なのである。

 結論として、私は、重犯罪者にはまず無期禁固で服役させ、「罪の償いと謝罪とが果たされた段階」で死刑が執行される“終死刑”の創設を考える。そうすれば、被害者も理解し、報われることとなろう。

 こうした視点のないまま、裁判員制度が施行されるのは、ただ混乱を招くだけである。

(記者:香河 秀紀)

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