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2008年06月11日(水) 11時25分

秋葉原無差別殺傷、容疑者から目を逸らすなオーマイニュース

 6月10日(火)夜9時50分過ぎ。

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 出張先の東京で、8日の秋葉原無差別殺傷事件の現場に設けられた献花台を過ぎると、万世橋署前交差点にぶつかった。そこに人だかりと、マスメディアのカメラ群。なぜ今?

 今、何の騒ぎかと近くの電気販売店店員に聞いた。

 「わからない。営業妨害以外の何者でもない」

 歩道に立つ先客の頭越しに背伸びして覗くと、7人乗りワゴン車のような車が万世橋署に吸い込まれていった。車両の目前には、数多くのマスコミカメラが待機していた。

 秋葉原なだけに、新鋭ロックアーティストのゲリラライブか何かと思っていた自分は、やっと気づいた。もしかすると、この事件の容疑者、派遣会社社員が乗っている車両だったのではないだろうか。周りの通行人は、ケータイカメラを向けている。

 撮影を終えたメディア関係者が、近くに駐車している衛星中継車へと向かっていた。

 容疑者はたしか、この日の午前に、万世橋署から送検されていたはず。

 今仮に、容疑者がワゴン車に乗っていたとして、いったい何のニュースになるのだろう。ニュース価値があるのだろうか。それとも全く別の事件なのだろうか?

 手前の献花台の横を通り過ぎるとき、事件のその時の惨状を想像し、私は怒りと悲しみに打ち震えた。

 しかし、ここで「またか」と脱力。逮捕された容疑者は検察や、裁判所へと常に護送される。あたりまえの働きである。

 惨状極まりない事件が起こると、メディアは煽る。

 容疑者の生い立ち。
 容疑者の奇行。
 容疑者の起こした事件と、日常とのギャップ。
 そして、被害者の美談。

 くそ食らえ。こんな事件はもうこりごりだ。

 容疑者は犯行前にネット上の掲示板に犯行予告や、途中経過をアップロードしていたとのこと。そこに、メディアは飛びつく。群がる。

 容疑者の思う壺だ。劇場型犯罪をメディアが結果的に加担させられていることを甘んじて受け入れるのか。

 「社会に、会社に、派遣先に、上司に、自分に絶望した」(と思われる)容疑者のストーリー通りではないか。

 したり顔の識者。眉間に皺を寄せたニュースショーの司会者。また、始まる。

 それでいいのか。われわれは、学ばなければならない。事件に巻き込まれた被害者を、美辞麗句で飾るよりも、この容疑者が、この惨状を起こした原因を、彼の置かれていた環境を考えなければならない。想像しなければならない。そして、われわれは、自分の身に置き換えて、自分の周りの知人、友人に照らし合わせなければならない。

 加害者側の立場にだ。近くにいないか。傷ついている誰かが。

 そして、この社会を考えよう。容疑者・彼には語らせなければならない。彼自身の言葉で社会に発信させなければならない。

 われわれが、メディアが、識者が、検察が、警察が、したり顔で決め付けるであろう紋切り型の表現ではなく、生の彼の言葉をわれわれは受け止めなければならない。何が彼をして蛮行せしめたのか。

 弁護人は誰がなるのか。火を見るより明らかなことに、この容疑者は極刑が求刑され、裁判所はそれを支持するだろう。

 7年前、この事件と同じ日に起きた、大阪教育大付属池田小の殺傷事件の宅間氏は、死刑判決結審から、異例の速さで執行された。本人が強く求めたのも要因らしいが、この小学校の保護者には、裁判官ら法曹関係者が多数いたからとの情報もある。

 宅間氏に心を開いて欲しいと望んだ女性がいた。彼女は一度もあったことのない宅間氏に語ることを、謝罪することを望んで、誰もが理解し出来ない獄中結婚をした。

 しかし、その勇気ある行動もむなしく、宅間氏は執行された。彼は雄弁だった、だからこそ語らせるべきだった。

 この社会に対する彼なりの絶望とは何だったのかを語らせる機会は失われた。

 弁護人の責任は重大だ。容疑者に語らせて欲しい。

 月並みな表現だが、そして勝手な想像だが、事件被害者は、同じような事件が起きないことを望んでいるはずだ。

 容疑者を狂人として社会から抹殺するのではなく、同じ時代に、同じこの社会に生きている我々は教えてもらおうじゃあないか。容疑者から目をそむけずに。


(記者:田島 岳志)

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