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2008年06月04日(水) 11時30分

母なる淀川、昔は公害、今はのどかに……オーマイニュース

 子ども時代、川といえば淀川でした。渡るのは十三(じゅうそう)大橋、そしてその付近の堤防。だけど今回は、少し川下の、淀川大橋を渡ってみました。

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 淀川大橋は、西淀川区と福島区を結ぶ橋で、国道2号線が通っています。

 西淀川区といえば、西淀川公害で有名になったぐらいで、このあたりは、今から40年ほど前、ひどい大気汚染で、淀川の汚染もひどく、大量に取れる蜆(しじみ)も臭気を放っていました。運動場をはさんだ向かいの校舎が見えないほどのスモッグで、小児喘息も多発していました。各小学校では、喘息体操や乾布摩擦の時間があったほどです。

 ところが6月1日のよく晴れた日曜日、家族連れでやってきて魚つりをするパパがいました。これは公害時代には考えられなかった光景です。

 厳しい公害の中では、いろんな形で住民たちが立ち上がりました。中でも有名なのが、西淀川公害訴訟。

 この国道2号と川下の国道43号、阪神高速池田線と西宮線の車の排気ガス、そして工場から吐き出される煤煙によって、住民たちは公害病に苦しみました。

 西淀川公害訴訟は1978年の第1次訴訟から17年に及ぶ裁判闘争の結果、1995年、和解が成立しました。

 西淀川公害患者と家族の会は、和解金39億9千万のうち6億円を基金とし、全国各地の公害地域の再生を支援するための公益法人を設立しました。

 もう一つの住民運動は、大野川緑陰道路という形を残しました。

 かつて、中島大水道と淀川を結ぶ延長2393メートルの大野川がありました。戦前までは輸送船の水路として役立っていましたが、国道43号線によって下流が遮断され、巨大な水溜りにまってしまい、周辺に悪臭を放っていました。

 その大野川を埋め立てて、高速道路にするという計画が持ち上がりました。道路公害に悲鳴を上げているのに、まだまだ自動車道路を造るのか、と住民たちが立ち上がりました。そして、高速道路に代えて、自転車と歩行者のための緑陰道路ができました。

 その母なる淀川に、釣り糸をたれる人が今や復活しているわけです。

 自分たちの住む環境は自分たちが守る──。運動してくださった方々に感謝しつつ、日曜の昼、淀川大橋を渡りました。

(記者:塩川 慶子)

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