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2008年05月28日(水) 11時14分

『プライド』と比較してわかる『靖国』騒動の論点オーマイニュース

 映画『靖国 YASUKUNI』(李纓監督)上映に対する抗議は、同じく上映が抗議された映画『プライド 運命の瞬間(とき)』(伊藤俊也監督、1998年)と比較されやすい。本記事では両者の動きを比較し、『靖国 YASUKUNI』上映騒動の問題性を指摘したい。

 『プライド』はA級戦犯として絞首刑に処せられた東条英機元首相が主役の映画である。

 この映画は日本による侵略戦争をアジア解放の戦争のように印象づけ、歴史を歪曲(わいきょく)・偽造していると強く批判された。製作した東映の労働組合や文化人らによって結成された「映画『プライド』を批判する会」は東映に対し、映画公開の中止を申し入れた。

 「映画『プライド』を批判する会」の発展的解消により結成された「映画の自由と真実を守る全国ネットワーク」(映画の自由と真実ネット)は映画『ムルデカ 17805』(藤由紀夫監督、2001年)にも抗議した。

 これはインドネシア独立の戦いを描いた作品だが、日本がインドネシア独立をもたらしたとして、侵略戦争の歴史的事実を歪曲し、美化するものと批判した。これらの映画の上映に抗議した人々が、『靖国』では、上映妨害の動きを批判する。これをダブルスタンダード(二重基準)だと批判する見解がある。

 結論から言えば『プライド』の上映中止を求めた人が、今回、『靖国』上映中止の動きに抗議する(つまり、上映を求める)ことは一貫性のある行動である。

 なぜなら、『プライド』批判は、主に労組や市民団体による「言論の自由」の範囲内の抗議活動である。これに対し、『靖国』では右翼団体による映画館への威嚇や稲田朋美・衆議院議員らによる政治的圧力が問題視された。このような動きに対して、表現の自由を守るために抗議したからだ。

 実際、映画演劇労働組合連合会(映演労連)の2008年4月1日の声明では以下のように主張する。

 「公開が決まっていた映画が、政治圧力や上映妨害によって圧殺されるという事態は、日本映画と日本映画界に、将来にわたって深刻なダメージを与えるものである」

 ここでの抗議の対象は、あくまで、政治圧力や上映妨害という手法に対してである。『靖国』批判派が『靖国』を批判する当の理由については、問題にされていない。『靖国』を「反日的である」「制作過程に問題がある」と批判することは全くの自由なのだ。問題なのは上映妨害や政治圧力である。

 映画における表現の自由を守るための戦いは、『靖国』が最初ではない。

 南京大虐殺を描いた映画『南京1937』においても右翼団体による上映妨害が繰り返されていた。1998年6月には横浜市の映画館で上映中に右翼団体構成員によってスクリーンが切り裂かれた。1999年10月には千葉県柏市が右翼団体の抗議活動を理由に上映会場である市民文化会館の使用許可を取り消した。

 『靖国』上映中止の動きに抗議した人々の多くは、『南京1937』の上映妨害に対しても強く抗議していた。『靖国』上映支持のデモが手際よく行われたことを疑問視する向きもある。しかし、上映妨害は今回が初めてではないのだ。過去の活動(上映妨害阻止)の蓄積があるため、手際が良くて当然である。

 歴史歪曲映画に対する抗議と、表現の自由の侵害に対する抗議──。これらが一貫性あるものとして認識されていることは「映画の自由と真実ネット」の発足アピール文を読めば明白になる。

 「1年前に公開された映画『プライド〜運命の瞬間〜』は、戦後半世紀を経て初めてと言っていいほど、歴史の真実に背を向けたものでしたが、その公開と併行して「歴史の真実」に迫る中国映画『南京1937』の上映は、右翼による激しい暴力的な妨害に直面しました。その右翼の街宣車に『プライド』のポスターが貼られていたことが示すように、「歴史の真実」を踏みにじる力と「映画の自由」を押しつぶそうとするものとは、完全に表裏一体を成しています」(「映画の自由と真実ネット」の発足アピール文より抜粋)

 公正とは「等しきものには等しく、等しからざるものには等しからざるものを」ということである。『プライド』に対する抗議と『靖国』に対する抗議は本質的に異なる。表面的な現象の類似性に惑わされず、等しからざるものには異なる評価を下すことが公正な判断である。

(記者:林田 力)

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