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2008年05月21日(水) 11時07分

『相棒』の根底に流れる日本社会への批判オーマイニュース

 映画『相棒─劇場版─ 絶体絶命! 42.195km 東京ビッグシティマラソン』が2008年5月1日に公開された。配給元である東映のこれまでの興行記録を更新する勢いの出足となっている。

 刑事物の人気ドラマシリーズの映画化である。紅茶好きの変人・杉下右京(水谷豊)と、熱血漢の亀山薫(寺脇康文)の凸凹コンビの絶妙な掛け合いが魅力である。映画版ということでスケールが大きく、社会的な事件を扱っている。

 題材になっているのはイラク日本人人質事件である。人質事件での日本政府の対応、マスメディアの過剰報道、それに乗じた国民的なバッシングに対する問題提起が感じられた。大ヒットさせることが当然視されている人気ドラマの劇場版で、世論を二分した社会的事件を題材にしたことは純粋に評価したい。

 しかし、本作品の社会派としての特徴は、単に現実に起きた事件をなぞっている点にあるのではない。日本人・日本社会の底流にあるものを鋭く批判している点にある。本作品が痛烈に批判しているのは日本人・日本社会の非歴史性と考える。過去を水に流す性質を美徳ととらえる向きもあるが、暗い過ちを記憶にとどめることなしには学習も進歩もあり得ない。

 過ぎたことにこだわらないことを是(ぜ)とする非歴史性は政府や行政にとっては非常に都合が良い。時効や被害者の死亡によって、どれだけの悪事・不祥事が葬られてきたか。真相を明らかにされることも、責任を追及されることもなく、うやむやのまま終わってしまったか。

 本作品でも、ひたすら時間稼ぎをすることによって真相を隠そうとする警察官僚組織のいやらしさが見事に描かれている。

 テレビドラマでは警察庁長官官房室長の小野田公顕(岸部一徳)が回転ずし店で食べ終わった皿をレーンに戻す、おなじみのシーンがある。映画でも「お約束」として使われたが、非歴史性を正当化する官僚組織の論理への伏線にもなっている。

 批判の矛先は政府や行政にとどまらない。過熱報道を行うマスメディアや、それに乗せられた国民も同罪である。作品中では報道被害の経験者が「マスメディアも国民も散々バッシングしておきながら、時が過ぎるとパタッと報道しなくなった。まるで事件が存在しなかったかのように」と憤っている。

 これは、「いつまでもネチネチと批判を続けないことが美徳」と勘違いした理屈で正当化されるかもしれない。しかし、本来、他者を強く批判をするからには、それなりの理由と信念が存在すべきである。時の経過によって簡単に薄まるようなものではないはずだ。逆に、確固とした理由も信念もなく、いい加減な気持ちで流行(はやり)のようにバッシングされたならば相手は浮かばれない。ところが、それが日本の実態なのだ。

 たいした理由も信念もなく、一過性の流行に乗ってバッシングする。内心では行き過ぎであると分かっているが、自分たちの行為を直視する勇気はない。だからバッシングはやめるが、過去を反省することなく、事件が存在しなかったかのごとく振る舞うしかない。まるで報道被害者も報道被害のことは忘れて明るく明日へ向かって歩むことが幸せであるかのように。

 記憶にとどめることも反省もしない非歴史的な日本社会に対する絶望的なまでの怒りが強く感じられた。残念なことに非歴史性は日本社会の根幹をなしているといってよいほど巨大なものだと思う。

 戦後、日本社会自体は戦争責任をうやむやにし、焼け野原から経済大国にしてしまうような前に進むような発想だけで成り立ってきたと言える。もっとさかのぼれば本気で攘夷(じょうい)を叫んでいたはずの維新志士たちが文明開化を主導することで明治日本が生まれた。

 日本社会の非歴史性に正面から取り組んだ本作品が、見終わって誰もが満足するスッキリしたハッピーエンドになり得ないことは、ある意味当然だ。作品の性質上、日本社会を全否定できない娯楽作品でありながら、日本社会の抱える根本的な問題に向き合った制作者のチャレンジ精神に心から敬意を表したい。

(記者:林田 力)

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