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2008年05月17日(土) 00時00分

【飛鳥の美】連続講演会「飛鳥文化の魅力」詳報朝日新聞

 大地に吹く 万葉の風

万葉時代の市を再現したジオラマ。中心には大きなシイの木があって人々を見守っている=奈良県明日香村の万葉文化館、荒元忠彦撮影 「十二支像に護られたキトラ古墳」のテーマで講演する猪熊兼勝・京都橘大学名誉教授=奈良県明日香村の奈良県立万葉文化館、荒元忠彦撮影 「大きな大きな樹の下で〜古代の樹木崇拝」のテーマで講演する上野誠・万葉古代学研究所副所長 上田正昭・京都大学名誉教授

 飛鳥資料館(奈良県明日香村)で、キトラ古墳(7世紀末〜8世紀初め)の十二支像壁画「子(ね)・丑(うし)・寅(とら)」が特別公開されているのを記念して、13、14日、奈良県立万葉文化館(同村)で、連続講演会「飛鳥文化の魅力」(同文化館、同村、朝日新聞社主催)が開かれた。考古学者の猪熊兼勝・京都橘大学名誉教授と、万葉学者の上野誠・奈良大学教授が豊富な知識をもとに持論を展開、延べ約550人が耳を傾けた。古代東アジアの文化交流に詳しい上田正昭・京都大学名誉教授の寄稿も交えて、飛鳥文化の魅力に迫ります。

 壁画発見 興奮の連続

 〈猪熊兼勝さん 京都橘大学名誉教授〉

 キトラ古墳との「つきあい」は、この古墳が発見された時からになる。78年ごろ、考古学に興味を持つ地元の人に案内された。こぶのような小さな盛り土があり、高松塚古墳によく似ていると思った。周辺の地域は「キトラ」と呼ばれていたと聞き、81年に考古学の専門誌で、キトラ古墳と名付けて紹介した。

 83年、発掘せずに古墳を調査する試みとして、キトラ古墳の盗掘穴からファイバースコープを入れて石室内を探査した。高松塚と同様にしっくいが塗られていたので「もしや」と思ったが、玄武が見えた時には思わず声が出た。

 98年には西の壁に白虎(びやっこ)、東の壁に青竜、天井に現存最古の天文図を発見した。01年に朱雀が見つかった時には仰天した。続いて見つかったのが「服を着たワニ」のような絵。今回、公開されている十二支の寅だった。斜め上から撮影したため、顔がつぶれてワニのように見えたのだ。

 では、キトラ古墳の被葬者は誰か。結論から言えば、天武天皇(631?〜686)の最年長の皇子だった高市皇子(たけちのみこ)(654?〜696)だろう。高松塚はやはり天武の皇子で、大宝律令の制定に功績のあった忍壁皇子(おさかべのみこ)(?〜705)の墓だと思う。

 被葬者を高級官僚や渡来系豪族とする説には同意できない。両古墳に描かれた天文図、四神、十二支、飛鳥美人などの人物像は、いずれも皇族を示す「ロイヤルマーク」で、それが幾重にも重ねられている。いかに高位の官僚でも、あれだけのものは描かない。被葬者は、天皇や天皇に準じる第一級の皇族だ。

 キトラ古墳から出土し、十二支壁画とともに復元展示されている黒さやの大刀(たち)にも注目してほしい。天武から皇位を継ぐはずだったが早世した草壁皇子(くさかべのみこ)(662〜689)の黒さやの大刀を藤原不比等が預かり、草壁の息子の文武天皇(683〜707)に渡したように、黒さやの大刀は王権のシンボルだった。

 高市皇子の活躍がなければ、天武がおいの大友皇子(648〜672)を破った壬申の乱の勝利はなかった。天武の皇后だった持統天皇(645〜703)は死去した高市皇子に特別に感謝し、壁画や黒さやの大刀などをささげて、皇太子級の扱いでキトラ古墳を造ったのだろう。

 根づく古来の宇宙観

 〈上野誠さん 万葉古代学研究所副所長〉

 万葉集の「藤原宮の御井(みい)の歌」では、藤原宮の東の香久山(かぐやま)を「青香具山」と歌っている。中国の宇宙観「陰陽(おんみょう)五行思想」で、青は東の守護神・青竜を示す。北の耳成山(みみなしやま)を玄武、西の畝傍山(うねびやま)を白虎と見なして、「大和三山」を藤原宮の鎮護の山とする思想があった。

 キトラ古墳の壁に描かれた青竜、白虎、玄武、朱雀の四神は宇宙の象徴であり、子・丑・寅などの十二支は時間の象徴であって、まさに陰陽五行思想の宇宙を示す。だが、飛鳥時代の宇宙観はそれだけではなく、木を世界の象徴とする思想もあった。

 万葉集の歌からは、古代の市場の中心に木があったことが分かる。例えば、日本書紀に登場する椿市(つばいち)(現在の奈良県桜井市内)はツバキの木がシンボルだ。こうした木の下で行われる契約には不正があってはならなかった。歌垣(うたがき)(若い男女が求愛の歌を贈りあう遊び)の歌に市場の木が登場するものがあるが、木の下で結ばれる相手にうそを言ってはいけないという意味があるのだろう。

 市や宮殿のシンボルとして多くの歌に詠まれた木に「槻(つき)」がある。ケヤキの木のことだ。枝を多く広げて陰を作るため、世界を覆う木のイメージから、世界そのものを象徴する木になった。飛鳥にも、槻の木を中心にした広場が飛鳥寺の西にあった。

 大化改新の中心となった中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と中臣鎌足(なかとみのかまたり)は、この槻の木の下でなされた「毬(まり)打ち」という競技をきっかけに知り合った。壬申の乱ではこの広場が公開処刑の場となり、天武・持統天皇の時代には遠来の使節をもてなす外交の場ともなった。この木の枝が自然に折れて落ちたことが、天変地異の予兆とされたという記録もある。

 現在、多くの人は「飛鳥文化」といえば渡来文化ばかりを思い浮かべる。だが、最新の文化が大陸から入ってくる一方で、聖なる木を中心とした古来の宇宙観も存続していた。飛鳥文化は、国際性と、古来持ち続けていた固有の文化という二つの側面から語られねばならない。

 注意が必要なのは、古来あった文化が広がりのないものとは限らないことだ。例えば、木を神聖視する思想は世界中にある。「グローバル」とは「ローカル」の集合に過ぎないことを忘れてはいけない。

 きらめく日本的な美 「河内飛鳥」にも共通点

 〈特別寄稿 上田正昭・京都大学名誉教授〉

 奈良県明日香村を中心とする「飛鳥」の地の歴史的な重要性は、近年の考古学の成果もあって、より明確になってきた。

 舒明(じょめい)朝の飛鳥岡本宮をはじめ、皇極(こうぎょく)朝の飛鳥板蓋(いたぶき)宮、孝徳(こうとく)朝の飛鳥河辺行宮(かわべあんぐう)、斉明(さいめい)朝の飛鳥川原宮と後飛鳥岡本宮、天智・天武朝の飛鳥浄御原(きよみはら)宮。飛鳥には歴代の宮処(みやこ)があった。しかも天武朝には外国に対して日本国を名乗り、日本の君主を天皇と称した物証がある。

 中国の『新唐書』や朝鮮の『三国史記』によれば、倭国(わこく)は690年以後に対外的に日本国を名乗り、701(大宝元)年の「大宝令(りょう)」では「日本天皇」と詔書(しょうしょ)(天皇が出した文書)に明記することが定められた。したがって、その間に「日本国」「日本天皇」の国号・称号が確立したことになる。

 高句麗の道顕(どうけん)が著した『日本世記』が完成したのは天武朝である。また1998年に飛鳥池遺跡から出土した「天皇」と書かれた木簡によって、「日本国」と「天皇」の使用が始まるのが7世紀後半であったことは、ますます確かになった。

 百済救援を名目として出兵した倭国の軍は、663(天智2)年の8月、白村江で唐・新羅の連合軍に大敗を喫した。それは、倭国存亡の危機につながる。これを転機として国家意識が高まった。

 672(天武元)年の壬申の乱で、実力により近江朝廷を倒した天武朝にあっては、日本独自の君主号「天皇」がより強く意識された。奈良時代に完成する『古事記』や『日本書紀』の編纂(へんさん)が、実質的にはこの時期に始まっているのも軽視できない。

 律令制確立の第一歩となる飛鳥浄御原令は、天武朝にできあがって持統朝に施行された。690(持統4)年からはじまる天皇家の祖先をまつった伊勢神宮の式年遷宮、その翌年から具体化した皇位継承の祭儀(大嘗祭(だいじょうさい))もこの時期に準備された。朝廷が神社を格付けし、災厄を退ける国家行事として「国の大祓(おおはらい)」を始め、飛鳥寺や百済大寺を朝廷が管理する官寺としたのも天武朝であった。

 飛鳥浄御原宮の名や、685(天武14)年正月に制定された明(みょう)・浄(じょう)・正(しょう)・直(じき)という階位名からは、「浄」の字に象徴される日本的な美意識の強調が見て取れる。天武・持統朝期の後期飛鳥文化は「白鳳文化」とも称されるが、前時代より日本化した要素が濃厚になる。山田寺の仏頭、薬師寺の薬師如来や日光・月光菩薩(ぼさつ)像、あるいは聖観音像の美はその象徴だ。

 万葉歌人の柿本人麻呂が活躍したのもこの時代であり、キトラ、高松塚という壁画古墳もこの時代のものだ。キトラの朱雀や高松塚の女人像に、のちの大和絵につながるきらめきを感じるのは私ひとりではあるまい。その和の魂に、渡来文化が重層する。

 大和(現在の奈良県)の飛鳥が歴史的に重要なのは言うまでもないが、河内(現在の大阪府)にも飛鳥と呼ばれた地がある。私は70年代から、大阪府の羽曳野市飛鳥から柏原市国分にかけての地域に広がる「河内飛鳥」の史脈とその保存を訴えてきた。

 河内飛鳥の地域に、百済系の飛鳥部造(あすかべのみやつこ)などの渡来集団が居住していたことは『続日本紀(しょくにほんぎ)』や『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』、正倉院文書によって確かめられる。そして『延喜式』で特に「名神大社」に列せられた飛鳥戸神社が鎮座する。

 羽曳野市飛鳥の一帯には飛鳥千塚と呼ばれる注目すべき古墳群が存在した。今はわずかに観音塚古墳など一部が残るばかりだが、これらの石室がキトラ古墳や高松塚古墳と同じ、切り石を組み合わせた「横口式石槨(せっかく)」であることもみのがせない。

 大和の飛鳥の歴史的重要性は、河内飛鳥と切り離しては考えられないだろう。

(アジア史学会会長)

      ◇

 〈キトラ古墳〉 奈良県明日香村の南端にある7世紀末〜8世紀初めの円墳。直径約14メートル。83年にファイバースコープによる内部探査で玄武の壁画が発見され、極彩色壁画を持つ古墳と判明した。

 石室は切り石を箱状に組み合わせて造られ、四方の壁には、方角の守護神である神獣・四神と、各壁に3体ずつの獣頭人身の十二支像が描かれていた。天井には日月と天文図があった。

 04年に発掘調査され、木棺の破片や大刀のほか、40〜60歳代の男性とみられる骨や歯が見つかった。被葬者をめぐっては、天武天皇の皇子の一人や、右大臣を務めた有力豪族・阿倍御主人(あべのみうし)、朝鮮半島から亡命してきた百済王一族の人物などの説がある。

 壁画が描かれたしっくいが崩落する恐れもあったため、文化庁は04年に壁画をしっくいごとはぎ取って保存することを決定。毎年5月、状態の安定した壁画が同村の奈良文化財研究所飛鳥資料館で特別公開されており、今年は十二支像のうち北壁の子・丑と東壁の寅が、25日まで展示されている。

http://www.asahi.com/kansai/news/OSK200805170038.html