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2008年05月09日(金) 00時00分

「人間回復の橋」20年 ハンセン病療養所と本土結ぶ朝日新聞

 瀬戸内海に浮かぶ長島(岡山県瀬戸内市)と本土を結ぶ「邑久(おく)長島大橋」が9日、開通20周年を迎えた。島には「長島愛生園」と「邑久光明園」の二つのハンセン病療養所があり、強制収容された入所者たちは「人間回復の橋」と呼んできた。一方、島内には引き取り手のない入所者の遺骨が眠り、橋を渡れない日々が続いている。

邑久長島大橋の開通20周年を祝い、入所者らと風船を飛ばす石田雅男さん(中央)=9日午前11時、岡山県瀬戸内市

 この日、全長135メートルの大橋の長島側のたもとで、両園自治会主催の開通20周年記念式が開かれ、石井正弘・岡山県知事や立岡脩二・瀬戸内市長、入所者ら約100人が参列。約50キロ南西にかかる瀬戸大橋で先月13日、1万人以上が詰めかけた開通20周年のイベントとは対照的だった。

 長島大橋は両園の入所者たちによる17年にわたる架橋運動の末、20年前の5月9日に開通した。長島愛生園の元自治会長、石田雅男さん(71)は「私にとって『人間回復の橋』そのものだった」と振り返る。1946年、10歳で発病し、両親と暮らしていた鳥取県境港市から独りで同園に強制収容された。小舟に乗せられ長島の桟橋に着いた時、「もう帰ることはできない」と幼心に感じたという。

 陳情団の一員として旧厚生省を何度も訪ね、「人間としての誇りを取り戻したい」と橋の必要性を訴えた。架橋後、石田さんは各地の小中学校などを回り、島での過酷な体験を伝えた。昨年の講演は年間50回を数える。「話したくない部分を話すことで、過去にとらわれない生き方を見つけた。橋がなければ、島外に積極的に出る勇気はもてなかった」と明かす。

 同園の歴史を紹介する園内の「長島愛生園歴史館」には03年の開館以来約4万人が訪れ、人権学習の場となるなど、大橋は長島と社会の接点となった。救急車や消防車が市街地から直接乗り入れられるようになり、平均年齢80歳の入所者たちは暮らしの安心も手に入れた。

 だが、同園には3467人の入所者の遺骨が今も安置されている。遺族が引き取りに訪れるのは年に数件。96年の「らい予防法」廃止以後、亡くなった入所者の約3割の遺骨が遺族に託されたが、その場合も家族の墓には入れられず、入所者自身が生前、地元から離れた場所に建てた墓に入る場合が多いという。(佐藤建仁)

http://www.asahi.com/kansai/kouiki/OSK200805090047.html