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2008年04月27日(日) 18時31分

<聖火リレー>平和のイベントで「非」平和を象徴した聖火リレーオーマイニュース

 日曜の朝、目が覚めると、テレビはどの局も、26日にあった長野市の北京オリンピック聖火リレーを報じていた。世界各地で繰り広げられるこの茶番劇について、記事を書く意味もないと思うが、後世のためにひとことだけ触れておく。

 長野でのテレビの映像を見ると、一般市民の立ち入りを極力押さえ、警察官を含む何百人もの護衛に囲まれて聖火が運ばれていた。

 オリンピックは「平和の祭典」と称され、聖火はその平和を最も象徴するものとされている。しかしこの聖火は、私には「非平和の象徴」に見えた。

 平和ならば、聖火はそれを見守る観衆の中を誇りと自信を身にまとい、高く掲げられて堂々と運ばれるはずだ。伴走者(車)はせいぜい1人(1台)を従えるくらいだろう。

 しかし、長野のそれに平和はなかった。むしろ一触即発の危険が充満していた。

 このような事態が世界各地で起こっている場合、一番になすべきはその原因を究明し、解決に全力を挙げることであろう。にもかかわらず、中国政府は(また各国首脳も)、自己の主張を強調するだけでこの茶番劇を推し進めている。

 なぜ、こうまでして聖火を世界各国に走らせなければならないのか?

 それは、国威高揚や経済主義など、オリンピックを政治的に利用しているとしか考えられない。近時、オリンピックはスポーツの祭典といいながら経済効果の追求に走り、膨張を続けてきた。同時に国威をあおる道具にされてきた。

 改革開放から新たな世界戦略を進める中国にとっても、この北京五輪は格好の材料なのだろう。だがいまの北京五輪の姿からは、第二次世界大戦の前夜、「民族の祭典」と謳われてナチスに主導されたベルリンオリンピックが想起される。

 一方には飢えと貧困に苦しむ多くの人々を抱えながら、一方には膨大な資金をつぎ込む……人間はいつまで誤ちを繰り返すのだろうか? 人類には、新たなルネッサンスが求められているのではないか。

(記者:首藤 和弘)

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