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2008年04月23日(水) 20時53分

親として、家族を持つ身として、光市事件判決に思うオーマイニュース

 1999年、山口県光市で起きた母子殺害事件は22日、広島高裁の差し戻し控訴審判決公判で、無期懲役とした1審判決を破棄し、被告の元少年(犯行当時18歳、現)に死刑を言い渡した。事件は発生から9年の年月を経て、求刑通りの極刑が適当と判断された。

■死刑は当然との判決か

 日本の現行の少年法は、罪を犯した少年も手厚く守り、更生を促す教育を施していくように作られているといっていいだろう。そのため、今回の判決結果は予測しがたいものであった。

 私は、死刑に全面的に賛成するわけではないが、これまでの報道だけを見ていると、元少年が一生反省しないのなら、無期懲役以上の刑も必要と考えていた。ただ、日本の場合、無期懲役でも「恩赦」などの措置があるらしいので、被害者遺族であれば無期懲役より死刑を望むのも当然と考えていた。

■親としてどう思うか

 もしも、この元少年が自分の息子であったなら、犯行当時18歳といえども、私は1人の大人として扱っているだろう。18歳という年齢までには、若いとは言え、殺人がどれほど最悪の犯罪であるかくらいの判断をできる大人に育てたいと思っている。ありえない話と思いたいが、もしも私の息子が、このような殺人を犯した場合、私は辛くとも死刑を甘んじて受け入れるだろう。

 私は、子どもを授かり、育て始めたとき、

「自分の親はこんなにも自分に世話をかけてくれた。いつかは親孝行をしようと思っていたが、それは思い上がりに過ぎないのではないか? 自分が子どもに対し、親がしてくれたと同じ以上の事を、子供にする事が、真の親孝行ではないか」と考えた。結果として、親が子供をしっかりと育てられなかったのだ。自分の子供であれば死刑を受け入れるしか責任を取る方法は無いと思う。

 私の親孝行観は、特殊なものとは思わない。親から受け継いだものを、子に伝える努力をする事は、何においても必要である。ネットで検索すると、被告の親子関係にある問題が、TVで報道されていた痕跡を発見した。二年前のものなのだが、加害者側の視点のように感じた。

■被害者のご遺族の拘り

 報道の在り方が、なぜか問われているこの裁判だが、私は被害者遺族がこだわり続けた「家族の絆」に深く共感している。だが、テレビ局の報道の手法は、「感情的で、公正性・正確性・公平性に著しく欠ける。刑事裁判の前提となる知識も不足しており、視聴者の知る権利を大きく阻害する」と、放送倫理検証委員会(BPO)が指摘をしていたらしいのだ。

 テレビ局の人たちは、人間であるのだから、このような凶悪な犯罪=幸福な家庭が一瞬で地獄に落ちてしまった事件を取材していて、感情的で、公正性・正確性・公平性に欠けてしまうような行動を取っていることにさえ気が付かないのではないかと思う。

 テレビ局が、例えBPOとやらが言う「感情的で、公正性・正確性・公平性」を遵守したとしても、視聴者や一般の人には、加害者の非道さ、被害者が受けた恐怖、被害者ご遺族の怒りと悲しみの大きさが、同様に伝わったのではないかと思う。

 放送倫理検証委員会(BPO)の指摘は、例え法律的に正しくとも、冷たくて、人間的に寂しい指摘であると思わざるを得ない。被害者ご遺族にとって、裁判の直前にこのような指摘が公表された事は、判結云々の前に、大きく心をかき乱され、とても辛い事だったであろう。

■自分が裁判員であったら

 まもなく始まる裁判員制度で、もし自分がこの事件の裁判員に選ばれたなら(※編集部注:実際には裁判員が参加するのは一審のみです)、被害者のご遺族が満足する判決にしたいと思う。あるいは、被告の反省の度合いで判断するという、非合理的な考えにしか至らないであろう。

 私は死刑そのものには賛成しかねるが、無期懲役では恩赦になる事もある。今回の光市事件の場合だと、被告に反省が無いと感じたので、私は死刑を選択するだろう。

 ただ、私のような感情論で判決を左右する事は、あってはならないような気がする。

 被害者のお2人にはご冥福を、本村洋さんには深き共感の祈りを捧げたい。

(記者:高橋 篤哉)

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