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2008年04月22日(火) 10時02分

「巨大なる凡庸」とまでいわれたテレビ報道〜光市母子殺害事件、BPO意見書を踏まえどう読むかオーマイニュース

 先週4月15日、放送倫理検証委員会(BPO)は山口県光市の母子殺害事件をめぐるテレビ報道に関する意見書を公表した。きょう4月22日に、広島高裁である差し戻し控訴審判決言い渡しを控え、各局が特集番組の準備を進めていたタイミング。差し戻し控訴審をめぐるテレビ報道の多くは、「感情的で、公正性・正確性・公平性に著しく欠ける。刑事裁判の前提となる知識も不足しており、視聴者の知る権利を大きく阻害する」と苦言を並べたものだ。

 意見書については、テレビのほか、新聞記事でも小さく報じられた。だが、その簡単な報道とは裏腹に、実際の意見書は40ページにわたって劇場型テレビ報道の問題点を詳細に解説した、濃厚な内容だった。ショーアップされた報道がもたらす虚無と罪悪を糾弾しながら、番組を通じてしか事件を知ることができない視聴者に対する警鐘も込めている。

 ここでは判決言い渡しの前振りに代えて、そのBPO意見書から、新聞・テレビがほとんど報じなかった部分を紹介したいと思う。

  ◇

 意見書を作成したBPO放送倫理検証委員会に加わった委員は10人。川端和治=委員長、上滝徹也=委員長代行、小町谷育子=同、石井彦壽、市川森一、里中満智子、立花隆、服部孝章、水島久光、吉岡忍(敬称略)——とそうそうたる顔ぶれだ。8放送局が流した20番組、33本の録画で、計7時間30分の検証を行った。

■あおられた対立構造

 意見書序盤にまず指摘されたのは、マスメディアが被害者側に偏った報道をするようになった背景についてだ。

 「この事件および裁判の進行と相前後して、マスメディアの事件・裁判報道には従来あまり見られなかった要素が加わっていた。90年代の後半から各地で粘り強くつづけられてきた重大犯罪の被害者家族と遺族の活動が、『犯罪被害者の会』(現在は『全国犯罪被害者の会』と改称)の結成に結実し、事件のたびに加熱した報道を繰り返すメディアに反省を迫っていたからである」

 過熱報道の反省を迫られたテレビ局は、それでは、とばかりに、被害者遺族が語る姿を流すようになった。同時に、取材者向けレクチャーを開く弁護団の姿を被害者遺族との「対立構造」に仕立て上げ、長時間にわたり放送するようになった。コメンテーターや出演者も、弁護団批判を連発する。

 たとえば、テレビでよく聞かれた「被告弁護団の安田好弘弁護士は死刑廃止論者のリーダー。自分の主義主張のために著名事件を利用している」という論調がある。これに対して意見書は、

  「たしかに弁護団のなかには死刑制度廃止を訴えてきた弁護士も何人かいるようだが、それ自体は思想信条の自由に属す事柄である。しかも、死刑制度廃止論はこの差し戻し控訴審の争点にもなっていないし、彼らがその主張を法廷で述べた形跡もない」

 「番組制作者がそれでも死刑制度廃止論者が弁護人になったこと自体が重大なテーマだと考えるなら、きちんとした取材に基づいて、それが批判するに値する事柄であるという理由を示す必要がある。それがないままに、被害者遺族の意見を引用・紹介し、そこに同調するだけで終わっている」

と、批判できるだけの論理がないことを指摘。番組制作者自身の見方や考えを番組に反映させるには、十分な取材に裏付けられた根拠があることが前提で、そうでなければ、「薄っぺらな勧善懲悪モノ」に陥り、「裁判の意義と意味を見失わせ、かえって視聴者に誤解を与えるものになってしまう」と厳しく糾弾している。

■刑事裁判の知識の不足

 もう1つ、BPOの指摘のなかでテレビがあまり触れなかったのは、報じる側の刑事裁判制度についての知識が不足している、という指摘だ。

 この差し戻し審では、「1審、2審で争わなかった事実を今になって持ち出すのはおかしい」「被害者遺族の無念を踏みにじっている」という論議が、多くの番組でしたり顔で交わされた。

 しかし、差し戻し審なのだから「今になって新たな事実を……うんぬん」という主張は的外れである。刑事裁判なのだから、弁護人が被告のために何でもするというのも当然だ。それに、法廷は裁判所が主宰するものであり、弁護団が好き勝手に主張を展開できるわけではない。法定内では、弁護団と同じだけ、検察側も主張を展開しているはずである。だが、番組ではそこのところが一切無視された——というのが、意見書の指摘だ。

 特に、検察側の主張が伝えられなかった点については、こう批判されている。

 「検察官の主張や立証の内容を伝えたものは皆無と言ってよかった。第1、2審の判決にもかかわらず上告をして死刑判決を求めた検察官の意図は何であったのか、それは差し戻し控訴審でどう展開されたのか、検察官は弁護団の新たな主張と立証にどう対応したのかといった事実を知らせることは、弁護団の主張・立証の意味を正確に理解し、公正・公平に評価する上でも、不可欠だったはずである」

 テレビ局が足並みをそろえて、こうした事実の見えない放送に走った背景には何があったのか。

 「真実はすでに決まっている、と高をくくった傲慢さ、あるいは軽率さは無かっただろうか。(中略)事実の評価を被害者遺族の見方や言葉に任せてしまい、自分では考えない、判断しない、という怠惰やずるさはなかったと言えるだろうか」

 「『悪いヤツが、悪いことをした。被害者遺族は可哀想だ』という以上のことは、何も伝わってこない。(中略)新聞の見出しを見ただけで誰でも口にできるようなことしかやっていない。(中略)画面には、取材し、考察し、表現する者の存在感が恐ろしく希薄である。そのような番組しかなかったことに、委員会は強い危ぐを覚えないわけにはいかない」

 そして最後に、この事件に関して、テレビは2つの点で「素材負け」したと断じている。1つは、被告の異様な人物像を捉え損なった点で、2つ目に、被害者遺族のひたむきな姿勢、思いに頼り切った伝え方しかできなかった点で。

■行き過ぎた感情論の危うさ

 被害者遺族と被告・弁護団の対立構造をクローズアップした報道、刑事裁判の基礎知識を無視したコメント、取材対象という「素材」に頼り切って踏み込まない取材。こうしたテレビ番組制作上の問題に加えて、意見書が指摘しているのが、「実感の過剰」だ。

 BPOの委員の1人は、7時間半の放送を見終わった後で、「巨大なる凡庸」という感想をもらしたそうだ。巨大とはテレビのこと、凡庸とは、何も考えないまま、表面的に周りと同じ事をやって盛り上がっている中身のなさを言っているのだろう。

 刑事裁判という法律の世界の出来事を、市民の実感レベルで解釈している、そこに危うさがあるという。特に、裁判員制度の導入を前にした今、感情を全面に押し出してそうした番組が作られることは、「行き過ぎた実感の側に人々を誘い込んではいないだろうか」というのだ。

 確かに、テレビ番組の中では、コメンテーターやゲストが金切り声で被告・弁護団への批判をまくし立てる場面をよく目にした。被害者遺族の気持ちを慮り、感情的に同意する。そのこと自体は悪いことではないし、それは、“TVショー”としては分かりやすい構成だ。だが、仮にも報道を謳うニュース番組でそれをやることの社会的責任を、テレビは考えているだろうか。

 感情を入れ込んでしまっては、事件を考えることにはならない。なぜこうした事件が起こったのかを考えなければ、再発防止にも、被告を本当の意味で罰することにもつながらないはずだ。

 私たちは、本当に光市事件のことを知っているのだろうか?

 きょうの判決は、最高裁が2006年6月に、「死刑の選択を回避するに足りる事情があるか、さらに慎重な審理が必要」として審理を差し戻したものだ。高裁はどんな判断を示すのか。テレビはそれをどう伝えるのか。伝え方はBPOの意見書以前とどう違うのか。心して見たい。

(記者:軸丸 靖子)

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