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2008年04月20日(日) 11時24分

かつて十三公園の周辺は火の海になったオーマイニュース

  最後の桜、と思った4月3日 から12日目の15日、十三(じゅうそう)公園は八重桜が満開でした。新緑の先っちょに、まだしっかり花を残したソメイヨシノもありました。そして造形美ともいえる添え木に守られたしだれ桜も満開でした。長く桜を楽しめる十三公園です。

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◆平和地蔵

 さて、十三公園の桜並木から、東の栄町商店街に入ると、東急インの前に、小さなほこらがあります。近づいてみると、立て札に「平和地蔵」と書いてあります。もうひとつの立て札に、説明が書かれています。

 敗戦のころまで、この辺りに、鏡が池という大きい池があったそうです。その池で、溺れて亡くなった子どもをしのんで、その母が地蔵尊をお祀(まつ)りしました。地蔵さんに守られたか、その後は事故もなく、地域の親たちに安産の守り神として、信仰を集めていました。

 ところが大阪の大空襲で、この辺り一帯が、焼け野原になってしまいました。戦後、十三商店街の方々が中心になって、このお地蔵さんに「平和地蔵」と名前をつけ、お祀りしているそうです。そして、少し東に進んだ、サンポードビルの6階に、第七藝術劇場があります。

◆府立北野高等学校に保存された、被弾の壁

 十三公園の、道路を挟んだ南側に、北野高校があります。思い出がいっぱい詰まっているからこそ、近くに住みながら、北野高校を訪れたことがありません。思春期の自分は、いじらしく痛々しく、思い出は胸が詰まります。だけど、市民記者として母校を捨て置くことはできません。

 数年前に新校舎が建ち、すっかり面変わりした校内です。監獄のようだと思っていた、窓の高いレンガ造りの校舎に代わって、新しい校舎はコンクリートの打ちっぱなしです。いずれにしろ、温かみを感じさせません。

 校門を入って右に進むと、保存された壁がありました。新校舎にくっついて、いかにも汚らしい壁です。だけどやっぱり懐かしい! 高校時代にも当然この弾痕はあったはずですが、記憶していません。碑の建立が1986年ということですから、あるいは、戦争の傷跡も記憶も薄らぐころになって、やっと正面から見つめることができるようになったのかも知れません。

 淀川区の空襲は、1945年3月4日、6月7日、15日、26日の4回だったそうです。受難碑に記された、ふたりの生徒は、6月15日の空襲で亡くなりました。当時は大阪府立北野中学校という名称でした。つまり2年生だったふたりは、まだ13〜14歳でしょう。3〜5年生は軍需工場で働き、1〜2年生が、学校での勤労奉仕と学校警備に当たっていたそうです。

 胸うずく思春期の入り口で、命を断ち切られた先輩たちは、ほろ苦い思い出を持つことすら奪われました。生き残って殉難の碑を建てた同級生は、今年77歳くらいでしょうか。体験をお聞きする機会があれば、と思います。

◆中津第3尋常小学校(成小路国民学校)は全焼

 十三公園の南側、つまり北野高校に面した入り口に、記念碑があります。1925年に中津第3尋常小学校として創立され、1928年に、いまの北野高校のすぐ東側に、木造2階建てのモデル校舎が建てられました。

 太平洋戦争が目前の1941年、成小路(なるしょうじ)国民学校と改名されました。そして1945年6月、空爆を受けて全焼しました。

 その後も再建されることなく、近くの神津(かみつ)小学校の統合されてしまいました。創立20年で母校を失った卒業生たちが、創立50年を記念して、この碑を建てたそうです。

 あの戦争は、遠い記憶になりつつありますが、イラク、パレスチナ、そしてチベット、と、新たな暴虐が積み重なっています。痛みを麻痺させることなく、他国の痛みに心を寄せたいと思います。

(記者:塩川 慶子)

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