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2008年04月17日(木) 11時02分

世の中、引き算の法則に変わりつつある!?オーマイニュース

 家の近くに小さなピンクの花を咲かせる木がある。そばで見ると花もだいぶ枯れている。

 同じような木、あるいは満開の桜などがあると、この木はみすぼらしく見えるかもしれない。

 しかし、その木のまわりには緑色か茶色のものしかないので、その木はきれいに見え、目立っていた。

 その木を見ていたら、以前、東京に住んでいたころ、自分のアパートから見えた、1本の桜の木のことを思い出した。その木は小学校の校門のところに立っていた。

 その木のほかに桜は見当たらない。たった1本の桜の木だったが、花が咲くとそのあたりが何か華やかな感じになるようで、「咲いてくれてありがとう」と毎年感じていたのだった。

 アパートの近くには、花見ができる、たくさんの桜の木が立っている場所もあった。そこはまるで桜吹雪の嵐のようで素晴らしかったが、たった1本の木が放つオーラを感じるのもまたいいものだ。

■一輪の美しさを際立たせる「引き算の美」

 無駄なものを捨てていくと、残ったものは存在感を持つようになる。そんな言葉を聞いたことがある。

 かつて、豊臣秀吉は、家臣の1人から「千利休の茶室前の庭にたくさんの朝顔が咲ききれいだ」という話を聞き、その素晴らしさを見にいくため、茶室を訪れたことがあったという。

 そして、利休は秀吉が到着する前に、すべての朝顔の花を刈り、たった一輪だけを茶室の花瓶に飾って、秀吉を迎えたという。

 いろいろなものを足していって、美しいものを作るというのが「足し算の美」であるとすれば、逆に、あるものをどんどん捨て、美しさを際立たせるのは、「引き算の美」とでも言えようか。

 たった一輪残された朝顔の花はあまりに美しく、秀吉は驚愕(きょうがく)したという。それは、生と死が同時に存在するような美だったそうだ。しかし、同時に秀吉は、利休の感性に嫉妬(しっと)し、恐れを感じ、殺意すら抱いたという。それが、その後、利休を切腹させるというエピソードにつながっていく。

■社会全体が次の段階に

 こんなことを言っている人がいた。インターネットの時代は、何でもできる人より、1つでも専門的なことができたり、知っていたりする人のほうがいい。

 そうかもしれない。

 今の世の中、「無駄なものを削減しろ!」、「カットする!」などという言葉をよく耳にするが、それは、これまで足し算の考え(法則)で行われてきたものが、ここにきて、引き算の考え(法則)で行われるようになってきたのだと言えないだろうか。

 僕は以前、こんな話を聞いたことがある。芸術の理想的な上達プロセスとして、最初は良しあしはともかく、何でも興味あるものを吸収する時期(足し算の法則)があり、次にいらないものを捨てる時期(引き算の法則)と続く。そして、その次の段階が最終的に1つのものを残す時期、つまりものが完成するわけだ。

 そして、その次に、宇宙と一体となる。つまり、別の分野の完成されたものと融合し、また、最初の段階に戻る。そういうスパイラルを繰り返して上達は続くというのである。

 足し算の法則で、飾りすぎると、それは美を越えてしまい、かえってノイズになったり、汚い印象になったりする。

 そうして、今の社会を見てみると、足し算の法則から引き算の法則で、物事が進んでいく時代が来ており、社会全体が次の段階に進化し始めたのではないかと思う。

(記者:古野本 聡)

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