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2008年04月16日(水) 11時12分

2000年前、韓国・泗川市の勒島(ヌクト)に日本人がいたオーマイニュース

 泗川(サチョン)市庁、文化財担当の金相一(キムサンイル)さんに案内していただいて、今回の旅の、本当の目的であった勒島(ヌクト)遺跡地に行きました。

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 前記事では、発掘中の遺跡地を、広角レンズで写真に収めたカメラマンの韓鐘愚(ハンジョンウ)さんの個人タクシーで、泗川大橋の方から、南海島をめぐりましたが、この日は逆に、三千浦(サムチョンポ)の方から大橋を渡りました。

 狭い農道に器用に車を停めて、金相一さんは、耕された畑の発掘跡地で、落穂ひろいのように腰をかがめます。足元を見ると、それらしい土器片が、私の目にも飛び込んできます。

 勒島全体が、三韓時代前期の遺跡地として、1985年に、すでに慶尚南道記念物、第75に指定されていました。そんな遺跡の島に、橋げたを使って、1998年、道路を造ったのです。

 緊急発掘調査が始まりました。もとから遺跡地であることは分かっていましたが、発掘してみると、韓国の遺跡の中でも、他にはない特徴を持つ遺跡でした。

■弥生人が持ち込んだ弥生土器

 そのひとつが、日本の古代土器として、一時代を画す、弥生土器です。

 弥生土器といえば、1884年、当時の東京、本郷の弥生町で、はじめて発見されたことから名づけられたと習いました。

 最近は、弥生時代の始まりが、紀元前10世紀にさかのぼる、という説が出て、新聞をにぎわせています。

 勒島の出土遺物は、西暦紀元前3世紀〜3世紀、ということですから、ちょうど弥生時代です。韓国ではこの時代を、原三国時代と呼んでいます。勒島は、『日本書紀』にいう三韓のうちの、弁韓の位置にあります。

 見つけた土器片を手にしている金相一さんに、「それ、弥生土器ですか?」と尋ねると「いや、この部分が底で、穴が開いているでしょう。これは、韓式土器のシル(蒸し器)です」といわれる。こんなカケラで、全体の姿まで、ほぼ、つかめているようです。

 場所を変えながら、しばらく探しましたが、弥生土器と思(おぼ)しきカケラは見つかりませんでした。

 弥生土器の特徴は、壷の口のところが、外に折りだされていることだ、と略図を描いてくれました。金海博物館の展示解説にも、そういう略図がありました。特徴を聞いたうえで、いろんな土器の写真を見比べると、なんとなく分かります。だけど逆に、土器を見て、どういう系統の土器であるかを判別することは、私にはできそうにありません。

 土器は、煮炊きや食品の保存に使う生活用品です。でも、最初の弥生土器は、交易に役立つものを入れる容器として、勒島に持ち込まれたのでしょう。さて、何を入れて運んだのでしょう。

 勒島出土の弥生式土器は、北部九州のもの、なかでも須玖(すぐ)式土器が多いようです。須玖式土器は、酸化鉄で赤く着色され、よく磨かれ、縄紋の伝統である帯紋が数本巻かれるという特徴があります。それまでの土器に比べて、軽くて丈夫だったので、容器として各地に運ばれたようで、早くから琉球(沖縄)にも伝わっています。

 一方、勒島では、弥生土器だけではなく、楽浪系の土器や、中国漢代の半両銭などが出土しています。ということは、紀元前後の弥生時代、韓国でいう原三国時代に、朝鮮半島北部の楽浪とも交流があったことを示しています。特に、この銭(ぜに)の存在はおもしろいです。

 金本位制という言葉がありますが、物々交換時代にも、貨幣的基準になるものがありました。貨の文字に貝の字が使われているように、貝もそのひとつでした。弥生土器に入れられて、北部九州から運ばれたものは、貝ではなかったでしょうか。

 須玖式土器が琉球に運ばれたのですから、琉球のゴホウラ、イモガイ(アンボンクロザメ)が、北九州を経由して、朝鮮半島へ運ばれたルートが見えてきます。しかも、この、ゴウボラやイモガイの腕輪は、弥生人の埋葬儀礼に欠かせないものでした。

 その後、弥生土器が勒島でも作られているので、交易のために勒島に来た弥生人が、長期間とどまったと思われるし、中には勒島の住人として骨をうずめた人もいるでしょう。

 帰国前に、釜山大学校の博物館に寄って、勒島出土の土器、そのほかの出土品を見ました。その中に、頭蓋骨の展示もありました。

 女性2体に、抜歯の風習が確認されたそうです。上顎の両側の犬歯で、時期的に見て、中国ではなく、日本の山陰から西九州一帯との関係だと考えられるそうです。勒島から持ち帰ったのは、鉄や青銅などの金属だったということが、日本側の遺跡から分かっています。

■干満の差は、良港の条件

 勒島は、中ほどがくびれて湾になっています。いくつかの小さな島が取り囲み、台風時などの風よけになってくれています。

 金相一さんは、潮の流れの速さを見せてくれました。干潮、満潮時には、もっと激しく流れます。朝鮮半島の西部へ行けば、必ず干満の差が強調されますが、ここでも流れの速さを説明されました。干満の差が大きいから良港って? ここで、はっと気がつきました。

 額田王の歌、「熟田津に船乗りせむと月待てば 潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな」の
「潮もかなひぬ」を、潮流に乗る、冬と夏で流れが違う暖流寒流の流れに乗る、ことだけしか、明確な形では感じていませんでした。

 キーワードは、むしろ「月待てば」にあるようです。満月の明かり以上に、大潮を待っていたのです。熟田津から海流の帯まで漕ぎ出すには、大潮の引き潮が必要でした。引き潮に運ばれて幹線の海流に乗り換えるのです。海のハィウェーどころか、無動力で運んでくれるベルトコンベヤーですね。なるほど、勒島が交易拠点として優れているわけです。

■オンドル施設

 温突(オンドル)施設は、初期鉄器時代、鴨緑江や大洞江、豆満江流域などではじまりました。青銅器時代の炉から、製鉄技術の発展につれて変化した、という見方があるようです。

 そんな暖房施設が、韓半島をすっ飛ばして、いち早く勒島に伝わりました。遺跡のオンドル遺構の中に、&ㄱ字型の単坑道があります。ハングルでㄱと書かれていますが、回転させればL字型です。

 近畿にもいくつかありますし、石川県小松の額見町オンドル遺構は有名です。額見町の方は、7世紀はじめ頃ですから、時代がずいぶん違います。ただ、高句麗や製鉄遺跡というつながりは深そうです。

 住宅遺構としては、高床式建物址もあります。

 今でこそ、日本だ、韓国だ、といっているけれど、北九州と韓国南岸は、陸続きより楽に移動できる海続きです。

 勒島は、朝鮮半島はいうにおよばず、楽浪を通じて中国と、そして北九州を通じて、日本列島、琉球までを結ぶ、東アジアの古代の鍵をにぎる島です。

 若いというより、可愛いといいたい金相一さんです。あだ名はプー、つまり、くまのプーさん、ということです。けれど聞くと、もう30代で、お子さんもいるそうです。お仕事の時間を割いて、午前中いっぱいお付き合いくださいました。それを許してくださった、泗川市庁のみなさん、ありがとうございました。

  ◇

参考 2001年、慶尚大学校博物館で行われたシンポジウム記録
「勒島遺跡を通してみる、韓・中・日古代文化交流」

(記者:塩川 慶子)

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