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2008年03月20日(木) 00時00分

「私自身も分からない」読売新聞

苦からの逃避日記に
鈴香被告が公判中につけた日記は大学ノート13ページ・約1万2800字に及ぶ

 「無期懲役に処します」

 19日、畠山鈴香被告(35)の判決公判が開かれた秋田地裁1号法廷。藤井俊郎裁判長は判決文を読み終えると、「最後に何かありますか」と尋ねた。鈴香被告は、聞こえないような小さな声でつぶやいた。「謝罪したいです」

 鈴香被告は、傍聴席の方へ振り向くと、突然、両ひざをついた。法廷は、どよめきに包まれた。傍聴席に座っていた米山豪憲君(当時7歳)の父勝弘さん(41)と母真智子さん(41)を見つめ、青白かった顔を紅潮させ、はっきりした声で言った。「大事なお子さんを奪ってしまい、申し訳ありませんでした」。そのまま両手を床にそろえ、土下座した。

 傍聴していた報道陣は様子を見ようと総立ちになった。傍聴席の後ろにいた鈴香被告の母は、土下座した瞬間、娘の姿から目を背け、みけんにしわを寄せて唇を強くかみ、涙をこらえた。土下座は10秒以上続いた。

 鈴香被告が立ち上がると、母も立ち上がり、速足で前に歩み寄った。鈴香被告は法廷の出口へ向かい、一瞬顔を上げるとしっかりと母の目を見つめ、法廷を後にした。

 だが、鈴香被告は、公判中に記した日記に、豪憲君の両親について、こうも記していた。「ご両親にしても何でそんなに怒っているのか分からない。まだ2人も子供がいるじゃない」

 謝罪の言葉を述べ、土下座までする一方で、「罪悪感というものがほとんどない」と日記に書いていた鈴香被告。昨年9月12日の初公判から判決までの189日間、何が鈴香被告の本意なのか、はっきりしないまま公判は終わった。

    ◇    ◇

 「すごいことが書いてあります」

 昨年12月3日の第10回公判を間近に控えたある日、公判を担当する検事が、1冊の大学ノートを手に、秋田地検の幹部の部屋に飛び込んだ。検事の顔は青く、ノートを持つ手は小刻みに震えていた。表紙には、マジックで「畠山鈴香」の文字。豪憲君の両親に対する侮辱の言葉が書かれた鈴香被告の日記。内容を読んだ幹部も驚がくした。

 第2回公判の翌日の9月22日、鈴香被告は、公判と並行して進められた地裁の精神鑑定を行った西脇巽医師と初めて秋田拘置所で会い、「自由に書いても書かなくてもいい」と勧められて日記をつけ始めた。

 〈9月22日(土) 今日初めて、Dr.(西脇医師)と話をしました。私よりも私のことを知っているのではないかとビックリしました。私が私自身の行動で「何で? どうして?」と思っていることはたくさんあります。その私自身も分からない行動の理由を一緒に解けたらと思います〉

 翌日には、判決で殺害が認定された長女彩香ちゃん(当時9歳)と豪憲君の両事件に触れ、こう記した。

 〈9月23日(日) 私にとって大きな疑問は二つです。橋の上で彩香が欄干の上に上った後何があったのか? なぜ豪憲君でなくてはいけなかったのか? どうして殺害という行為までしてしまったのか? これはDr.と一緒に考えていけたらと思います〉

 日記は、昨年9月22日〜11月9日まで32日分、A4判の大学ノートに13ページに及ぶ。やや右肩上がりの文字でつづられた日記には、「生」と「死」への希求に揺れる記述が見られる。

 「生きていたい。少しでも早く帰りたい」「死にたい。死刑になってもいい」「死んで楽になりたい」「疲れてしまった」——。

 そして、鈴香被告は10月31日の第6回公判で、「極刑にしてほしい」と裁判長に訴えた。ただ、日記を読めば、その言葉が、決して深い反省の気持ちから出たのではなく、苦しみからの逃避でしかないと読む専門家が多い。

 西脇医師は、12月21日の第12回公判で、「内容は(鈴香被告が)思っていたことを書いたもの。思っていなければ書けない。私もびっくりした」と語った。

 ある捜査幹部も、「謝罪とか死刑を望むとか全部ウソ。日記にこそ真実が書いてある。あの女の本音だよ。家族の元に帰りたいとしか書いてない。その『生』への強烈なベクトルは一貫している。絶対に死刑になりたくないというのがよく分かる」とみる。

 聖学院大の作田明・客員教授(犯罪心理学)は、土下座について、「演技性が強く、自己顕示欲の強い彼女にとって裁判は、苦痛だけでなく、ある種の心地よさを感じる場であるのかもしれない。その意味で、土下座という芝居がかった行動は、彼女の性格をよく物語っている」と分析した。

http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/akita/feature/akita1206076020175_02/news/20080321-OYT8T00440.htm