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2008年02月26日(火) 00時00分

①日本初の「漫画映画工場」練馬に誕生読売新聞

畑から「目指せディズニー」
練馬区東大泉の畑に建てられた「東映動画」のビル。ここから多くのアニメーターが育った(1956年当時の様子)=東映アニメーション提供

 昔々、練馬の畑の中に一棟の小さなビルが建った。日本で最初の本格的な“アニメ工場”だ。中では、たくさんの若者たちが「パラパラ漫画」を描いた。ジブリの宮崎駿さん(67)もその一人。多くのアニメーターがここから巣立った。オタクの原点はキャベツ畑のすぐ隣——信じられる? そんなお話。

「白蛇伝」制作時のメモを手にする大塚康生さん

     ◇

 自由党と日本民主党により保守合同が行われ、日本の戦後政治が出発したのは1955年のことだ。翌年、それとは何の関係もなく、練馬区東大泉に白い校舎風の建物が姿を現す。

 そこは「東映動画」といった。時は映画の全盛時代。時代劇で次々にヒットを飛ばした東映は「漫画映画」に未来を託そうと新会社を設立した。

 合言葉は「目指せディズニー」。戦後復興の中で、白雪姫、バンビといったディズニー映画が上陸し、一大ブームを巻き起こそうとしていた。そんな中、「国産アニメを」というのが、東映のもくろみ。

 当時の大泉地区は畑ばかり。住宅はまだまばらで、農家が練馬大根を作るのをやめ、キャベツに切りかえたころだった。集まった描き手は約30人。経験者は小さな制作会社で劇場用の短編アニメを作っていた大工原章さん(90)、森康二さん(故人)の2人だけ。会社の意気込みとは裏腹に、いきなり長編アニメを生み出せる陣容ではなかった。

 <東映、漫画映画を始める>——読売新聞が56年に報じた記事を、食い入るように見つめる麻薬Gメンがいた。大塚康生さん(76)。当時26歳。犯罪のにおいをかぎつけたわけではない。東映動画の人事窓口に押しかけ、「私を採用しろ」と迫った。

 山口県出身。漫画家になる夢を抱いたまま、厚生省(現・厚生労働省)の採用試験に合格して上京。有楽町にあった麻薬取締官事務所に配属され、拳銃を磨いたり、被疑者の指紋を採取したりしていた。でも夢を捨てきれず、仕事中でも上司の目を盗んでは漫画を書き殴る毎日。描き手の募集はすでに終わっていたが、青年は一歩も引かない。

 その場で、少年が槌(つち)で杭(くい)を打つ動作の絵を5、6枚すらすらと描いて見せた。すると、担当者は驚いた様子もなく、「ふーん、じゃあ、あしたから来てよ」。役所に戻ると、喜び勇んで辞表を書いた。

 そのころ、東映動画では、日本初の長編総天然色作品『白蛇伝』の制作に取りかかろうとしていた。その中に、胸を高鳴らせて飛び込んだ。だが、あれよあれよと駆け上ったのはそこまで。なにせ絵がうまいだけの“素人集団”。白蛇伝が完成するまで2年もかかり、その間にはいろんなことがあった。

 ところで、オタクの人ならきっとご存じかも。「ふ〜じこちゃ〜ん」。大塚さんが作画監督としてブレイクしたのは、『ルパン三世』(日本テレビ系、71年放送開始)だ。次元、五ェ門、銭形警部……面白いキャラクターがいっぱい。彼らを自由自在に操りつつ思った。「好きなことができて良かった。ほんとに」

■白蛇伝■ 1958年10月公開。今年50周年を迎える。中国の民話をもとに制作。白い蛇の化身である美しい娘と青年が恋に落ち、愛を成就させていくというストーリー。長編、オールカラーとも日本初。一昨年、元「モー娘。」安倍なつみさん主演で、萌(も)え〜なミュージカルになった。

http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/tokyo23/feature/tokyo231203958795871_02/news/20080226-OYT8T00134.htm