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2008年02月14日(木) 07時50分

長野五輪10周年 ピンバッジ交流は健在産経新聞

 長野冬季五輪で、長野市を中心に巻き起こった大ブームがあった。それは、市民同士や来日した外国人との「ピン」と呼ばれる記念ピンバッジの交換。海外のコレクターが持ち込んだピンの魅力にとりつかれた県民は少なくない。五輪から10年を経た今も、ピン収集の趣味は根強く残る。(比嘉一隆)

 「卵とピンバッジを交換してほしい」

 長野市の会社役員、竹ノ内勇さん(54)が五輪当時営業していたラーメン店に来たロシア人の男がこう言った。

 とっぴな申し出に「何を言ってるんだ…」と驚いたが、「これも国際交流なんだろう」と求めに応じた。これが最初のピンとの出合い。その後、ピンのデザインの美しさや物語性にどんどんひかれていったという。

 「当時、『エド』とか『トム』とかいう名前のピンをたくさん持つ外国人がいて、探して追いかけた。『エドが来た!』と仲間から連絡が入ると飛んでいった」と振り返る。

 これまでに約1万個を集めたが、一番のお気に入りは思い出のラーメン店があった場所「ナガノオリンピックプラザ」の記念ピン。竹ノ内さんは目下、週1回のペースで中国語の個人授業を受けている。目指すは北京五輪でのピン交換だ。

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 「切手や古銭のコレクションは交換する文化がほとんどない。ピンは、もうひとつのオリンピック」と魅力を語るのは長野県企画局の和田恭良局長。1994年の冬季リレハンメル(ノルウェー)五輪に通訳として赴いた妻の土産のピンに興味を持った。

 長野五輪期間中は、飲料メーカーの日本コカ・コーラが毎日、デザインの違う五輪ピンバッジを販売。和田さんは昼休みを使って連日、公式交換場に通い詰めたが、「開催8日目のハート形のピンが手に入らず、周囲に顔が青ざめているといわれました」。後日、交換でようやく手に入れたそのピンへの思い入れは強い。コレクションは2000個以上。今でも、気になるピンはリストアップし、インターネットでチェックしているが、なかなか見つからないという。「10年たてば、熱が冷めて(オークションに)出す人がいると思ったんですが…」と感慨深げだ。

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 もともと、ピン交換は1988年のカルガリー(カナダ)冬季五輪以降、スポンサーのコカ・コーラが交換場を作り、ユニークなピンを次々と発表したのが火付け役といわれる。もはや、五輪会場のピン交換は見慣れた光景だ。

 長野五輪では、長野駅周辺に外国人らが露天商のように路上にテーブルを置き、その上にピンをずらりと並べていた。

 しかし、関係者によると、開催前は五輪グッズ人気はさほど高くなく、業者は在庫調整に入るほど。それが、スケートの清水宏保選手の金メダル獲得で状況が一変。ピンの需要が急上昇し、品薄感が拍車をかけた。大金を払って購入する人が続出。長野駅前の交換場は「東京の原宿のような混雑で、『ドラえもん』を描いた放送局の記念ピンは10万円を超えていた」と当時の熱狂ぶりを知る県職員は語る。

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 長野市の丸田澄子さん(57)は17年前、長野青年会議所で五輪誘致にかかわった夫の献次郎さん(57)と一緒に、バーミンガム(イギリス)で長野開催決定のアナウンスを直接、聞いた。発表直後に会場前で配られた記念ピンが夫妻の宝物だ。リレハンメルでも高校生たちと交換した経験を持つ先駆者だ。

 「ピンは友情の交換。しかし、長野五輪で日本人は買うことが多かった。ピンの本当の楽しさを知ってほしかった=」。こんな“反省”から、長野五輪の翌年、夫妻は知人と一緒に手弁当で交流イベント「長野ピンずる祭り」をスタートした。16日から2日間の日程で開く祭りは今回で10回目だ。「ピン文化の発祥の地」(丸田さん)という長野に今年も日本中から愛好家が集う。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080214-00000061-san-l20