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2008年01月18日(金) 01時43分

1月18日付 編集手帳読売新聞

 昭和30年代の半ばという。井伏鱒二がある朝、当時のNHK会長、阿部真之助氏の自宅を訪ねると、主人がパジャマ姿で座敷一面に朝刊各紙を広げ、険しい顔で見出しを見比べている◆「気になりますか」と問う作家に、新聞記者出身の阿部氏は答えたという。「気になるさ。ぼくは今でも他社にスクープされる夢を見るんだ」。70歳を過ぎて衰えることのない記者気質(かたぎ)に感じ入ったと、井伏は回想録に書いている◆敏腕の阿部氏と違い、そういう夢の種ならば一生分の在庫を蓄えてしまった凡庸の身ながら、その言葉は分かる。他に先んじて報じることを無上の誇りとした人は、古巣の醜聞に泉下で言葉もなかろう◆NHKの記者ら3人がインサイダー取引の疑いで証券取引等監視委員会の調査を受けた。企業買収をめぐるスクープの放送直前に内容を知り、株式を売買した疑いがもたれている。他に先んじて儲(もう)けることに熱心な者を、記者気質ではなく何気質と呼ぶべきか◆情報が悪用されるのを懸念し、取材先がこぞって口をつぐめば報道は成り立たない。寝る間を惜しんで地道な取材を重ねている多くの記者も、はらわたの煮える思いだろう◆それにしても、問題のよく起きる組織である。会長が朝、自社の不祥事を報じる朝刊各紙の見出しを恐る恐る見比べるようでは情けない。

http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20080117ig15.htm