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2008年01月11日(金) 16時03分

思いやっと「心から喜び」 薬害肝炎法成立で原告万感東京新聞

 「きょうは何の疑いもなく心から喜べます」。薬害肝炎被害者救済特別措置法が参院での全会一致で成立した11日、薬害肝炎訴訟の原告らは提訴から5年間の長く苦しい闘いを振り返り、涙を浮かべながら喜び合った。一方、約350万人と推計されるウイルス性肝炎感染者対策や肝がん患者らへの対応など課題は多い。全国原告団代表の山口美智子さん(51)らは「これで終わりと思っていない。そこを見極めるまでは今後も闘っていくつもり」。製薬会社の加害責任を追及し、謝罪を求めていく決意を強調した。

 「全会一致をもって可決されました」。参院本会議場に、江田五月議長の声が響き渡る。傍聴席に座った原告らは、音を出さないように小さく拍手した。

 採決は、押しボタン投票形式で行われた。議長席の後ろにある電光表示板には「賛成239 反対0」の数字が浮かび上がる。「反対ゼロよ」。山口さんは、かみしめるようにつぶやいた。

 九州原告の出田妙子さん(49)は「4年前に提訴した時の気持ちを思い出した。必死の思いが、やっと国会の場で認められた」と涙を何度もぬぐった。山口さんは採決後、「ようやく何の疑いもなく心から喜べます。5年間の闘いが報われた。つらかったことはたくさんあったけど全部吹っ飛んだ」と笑顔に。しかし「私たちだけの話で終わらせず、これからは一般肝炎対策の法案につなげていかなければ」と表情を引き締めた。

 57歳で亡くなった姉の遺影をかばんに入れて傍聴した妹の泉祐子さん(59)は「本当は本人が聞けたら良かった。命は帰らないと思うと涙が止まらなくて…。お姉さんが望んだことは一歩進んだよ、と言ってあげたい」と話した。被告の製薬会社は責任を認めて謝罪しておらず、原告らは今月末までに企業側に見解を示すよう求めている。「これで終わりじゃない。姉の願いは薬害根絶。企業の責任追及が絶対に必要です」

■教職断念、家族生活も犠牲

 「皆さんの活動のおかげで、医療費助成も進みました」

 福田康夫首相との初面会が実現した昨年12月25日、訴訟の先頭で闘ってきた山口さんは、首相のねぎらいの言葉に報われた気がした。医療費助成は肝臓病患者の悲願。山口さんらの訴えが風穴をあけ、与党は11月、推計350万人のウイルス性肝炎感染者への医療費助成など一般対策をまとめた。肝がんや肝硬変には助成されず、自己負担額の多さなど今後の課題は残るが、枠組みだけはできた。

 救済法案が衆院に提出された今月7日の記者会見で、山口さんは、弁護士が11月に福岡高裁で行った意見陳述を声を震わせながら読み上げた。「自らより350万人の恒久対策を最優先課題とし、プライバシーも愛する家族との安らぎも、すべてを犠牲にして行動を積み重ねた」。山口さんの脳裏には、これまでの苦労や家族への思いが浮かんでいた。

 1987年、二男(20)の出産時に大量出血し、汚染されたフィブリノゲン製剤を投与された。二男が中学2年の時、弁論大会でこんな発表をした。

 「幼いころ、兄弟げんかをした時、兄から『母さんは、おまえを産まなかったらこんな病気にならなかった』と言われた。母が病気になってまで産んでくれたこの僕自身を大切にしたい」

 「肝硬変の手前」と診断され、2000年10月にインターフェロン治療を開始。副作用や体力的なつらさで納得のいく教育を実践できなくなり、21年間続けた教師生活を断念。治療でウイルスは陰性になったが、がんができやすい状態で、完治とは言われていない。

 訴訟の和解へ向けた活動が本格化した9月以降、福岡の自宅にはほとんど戻れなかった。期待しては、裏切られる−の連続。家族を思い出すのも忘れてしまうほど必死だった。「そんな自分が悲しかった」

 熊本市に住む母(77)は認知症が進み、昨年3月から地元の特別養護老人ホームに入居。月に一度は見舞っていたが、10月以降は行けなくなった。だが、普段はニュースを見ても視線が定まらない母が、東京で必死で闘う娘の顔がテレビに映ると、目をとめていた。

 元日、3カ月ぶりに会えた。手を握りながら話しかけた。「遠くにずっと行っていたから、会えなかったもんね」。ほとんど言葉を発しない母が、ぎゅっと握り返してきた。 (西田義洋)

(中日新聞・東京新聞)

http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2008011190135208.html