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2008年01月06日(日) 00時00分

⑤起死回生のライトアップ読売新聞

夜の病室 希望ともる
投光器で華々しくライトアップされた現在の東京タワー。家族で、独りで、カップルで、様々な人がそれぞれの思いを胸に見つめている

 病室の窓の向こうに、柔らかな白銀の光を放つ東京タワーが浮かび上がっていた。

 1990年夏。芥川賞作家・日野啓三は、タワーにほど近い大学病院で腎臓がんの手術を受けた。無数の管につながれ、鎮痛剤による幻覚に苦しみながら、毎夜、窓の外のタワーを眺め続けたという。

 〈たったひとりになる夜の間、東京タワーだけが救いだった〉

 短編集「断崖(だんがい)の年」の中で日野は、夜も決して病室のカーテンを閉めなかった、と明かしている。

 日野を支え、癒やした光。タワーがその光で夜の街を照らすようになったのは、20年ほど前のことだ。

       ◇

 「もう一度、タワーに注目を集めたいんです」

 照明デザイナー・石井幹子(69)が、タワー運営会社「日本電波塔」幹部の訪問を受けたのは1987年春。

 翌年12月に開業30周年を控えていた。だが、都内には、「東洋一の展望台」をうたう池袋のサンシャイン60をはじめ、高層ビルが次々と登場、タワーの存在感は薄れていた。来場者数は開業翌年度の493万人から徐々に減り続け、ここ十数年は200万人台に落ち込んでいた。

石井幹子さん

 起死回生を託されたのが、ライトアップの手法を日本に紹介した石井だった。

 当時、タワーは夜間、鉄骨の輪郭を縁取る形で電球を点灯させていたが、「ポツリ、ポツリと光るだけの寂しい印象だった」(石井)。一方の石井も、86年に東京駅舎のライトアップを手がけて注目され始めていたとはいえ、「光で景観を演出する」という考え方がなかなか日本で受け入れられないことを、もどかしく感じていたころだった。

 「東京のシンボルを彩ることで、日本にライトアップの魅力を広めたい」。石井は100基以上の投光器で鉄塔を内側から照らし、骨組みを浮かび上がらせる手法を提案。ライトも夏は涼しげな白い光、冬は温かみのあるオレンジ色の光に替えることにした。

 「航空機の妨げになるのでは」「大量の投光器を使うと電波を乱すのでは」などの懸念も生じたが、実際にヘリを飛ばしたり、関東一円を車で回って電波状況を確かめたりしながら、一つ一つクリアしていった。石井とともに奔走した電波塔の元社員で、後に技術顧問も務めた草野征拓(69)は「タワーの将来をかけた事業。石井さんも我々も必死でした」と振り返る。

 本格的に点灯がスタートしたのは、昭和天皇崩御の喪が明けたころ。華麗に変身を遂げたタワーは、新しい平成の時代の象徴として息を吹き返した。来場者数は89年度、380万人に回復。ホテルやマンションは「タワーの見える部屋」を売り文句に誘客した。

鉄骨の輪郭を電球の光で縁取るだけだったころの東京タワー(1973年撮影)

 デートスポットや観光地として再び脚光を浴びるようになったタワーだが、そんなタワーを生と死の境目から見つめた人もいた。

 都内に住む女性(69)は9年前、タワー近くの総合病院で胃がんの手術を受けた。医者からは「手術しても無理かもしれない」と宣告されていた。眠れない夜、悪夢からふと目が覚めた時。不安を和らげてくれたのは、「いつもそこにどっしりと立っているタワーの、温(ぬく)もりのあるオレンジ色の光だった」。奇跡的に回復した女性はいま、こう振り返る。「私にとって一番美しいタワーは、病室の窓から見たタワーです」

       ◇

 90年代半ば。東京タワーでの成功をきっかけに、石井の元にはライトアップの依頼が次々と舞い込むようになっていた。自らの闘病生活をつづった日野の手記を目にしたのは、全国各地を飛び回っていた、そんな時期だった。

 〈品があって聖なる気配を帯びている〉〈その照明をデザインした女性に感謝した〉——。

 「自分の生んだ光が、生死をさまよう人の癒やしとなったのか」。石井は、それまでの称賛から受けたものとはまた違う、静かな感動を覚えた。

 一度会いたいと願い続けたが、実現しないまま日野は2002年に亡くなった。だが、「光の力」を信じさせてくれたその手記は、タワーでの仕事と共に、石井にとって忘れられないものになった。

(敬称略、中村亜貴)

 ◆国内では80年代から盛ん

 建造物や自然景観に照明をあて、その姿を美しく浮かび上がらせるライトアップは、ヨーロッパでは1920年代から行われていたが、国内では石井の紹介で1980年代から盛んになり始めた。レインボーブリッジや姫路城などの照明も、石井のデザイン。近年では世界遺産登録を目指す群馬県の旧富岡製糸場など、各地に広がっている。

 一方で、照明によって星空が見えなくなるなどの「光害」の問題や、省エネの問題と背中合わせでもあり、様々な議論も巻き起こしてきた。

 建築家の山本理顕・横浜国大教授は、「街並みをライトアップすることは、その街の魅力を考えるきっかけにもなる」と指摘、「必ずしも全体を照らす必要はなく、何を照らすかは街並み全体との関係で決めればよい。エネルギー消費量にも気を配れば、有効な町おこしの手段となりうるのではないか」と話している。

http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/tokyo23/feature/tokyo231199378046481_02/news/20080108-OYT8T00441.htm