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2008年01月04日(金) 00時00分

③地上250m、父が残した絶景読売新聞

変わる街並み、娘が撮る
1958年12月3日。完成間際のタワーに上った松永さんが撮影した斉藤さん(中央)らの写真。松永さんはさらに上方の足場に立っていた

 思い立って、東京タワーの250メートル付近にある特別展望台にのぼってみた。2004年12月5日正午。手には、亡き父の愛機「マミヤシックス」を握りしめていた。

 46年前、父は同じカメラで、眼下に広がる東京の街並みを写した。同じ時間に同じ場所から、父が写した街を撮ってみたい——。展望台の窓ガラスにカメラを押しつけ、ファインダーをのぞく。だが、目印と思った国道や古い建物は高層ビルに埋もれ、父と同じ撮影ポイントはなかなか見つからない。街の姿は大きく変わっていた。

       ◇

 田島みどり(59)の生家は、東京タワーを正面に望む港区三田の一角の、小さな写真館だ。

 タワー建設が始まった昭和32(1957)年当時は小学3年生。〈自分たちの街に世界一のタワーが建つ〉。街中がその話題で持ちきりだったのを覚えている。見上げるたびに高さを増す鉄塔の姿に、「昨日より高いな」と言い合うのがあいさつ代わりだった。

 田島が通っていた地元の区立赤羽小学校では、図工の授業で作る木彫りのペン立て一つとっても大騒ぎ。クラスの大半がタワーの図柄で作りたがり、先生に「個性がないなあ」と小言を言われても、やっぱりみんながタワーの柄。田島のペン立てもタワーだった。運動会で、男子がみんな応援そっちのけでタワーの作業に見入り、先生から雷を落とされたこともある。

 興奮していたのは子どもばかりではない。写真館を営む父の松永寿郎も、タワーに夢中になり、毎日のように写真に収めた。客の一人の塗装工、斉藤悟郎(72)がタワーで働いていると知ったのは完成間近になった33年冬。「タワーの上から写真を撮らせて」と頼み込むと、まだおおらかだった時代のこと、斉藤は気安く応じ、作業用ジャンパーとヘルメットを貸してくれた。

 決行日は完工式を20日後に控えた12月3日。昼の休憩時間を見計らい、ほかの職人に紛れて入り込んだ。

 細い手すりを頼りに、幅1メートルもない狭いらせん状の非常階段をひたすら上った。強風にあおられながら、20分近くたったろうか。高さ250メートル近くに組まれた足場にたどり着くと、持参した「マミヤシックス」のシャッターを夢中で切り続けた。

2004年12月に田島さんが撮影した街並み。三田通りを首都高速が横切り、周辺には高層建築が林立する
1958年12月に松永さんが東京タワーから南方向を撮影。まっすぐ延びる三田通りを遮る建築物はない

 鉄塔に立つ斉藤らを撮った写真が今も残っている。父は斉藤よりさらに上の足場に身を置いていたはずだが、斉藤は「松永のダンナは怖がっているように見えなかった」と振り返る。

 だが、タワーを降りてから震えがきて、止まらなくなった。その日の午後、現像の作業が一切手に付かなくなった父に、母の知江子(85)が「仕事が残っているのに、もう」と怒っていた。

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 父は62歳だった54年8月、バイクを運転中に10トントラックにはねられ亡くなった。その8年前に会社員と結婚し、広島で暮らしていた田島は急きょ上京した。ショックを受けた母を支えるためだった。

 子どものころから、「写真館は継ぎたくない」と宣言してきた。いつも夜中まで暗い暗室にこもる父の姿をみて、「私は会社員に嫁ぐ」と言ったこともある。

松永寿郎さん

 だが、店を手伝い、父の遺品のアルバムを整理するうち、次第にこの仕事への愛着がわいていった。

 父は、タワーが組み上がっていく過程を丹念に追う一方で、開発のために壊されていく芝公園の写真も撮り続けていた。愛した街の変化を、好きなカメラに収め続けた父の気持ちが、理解できるような気がした。田島は「父が眺めた風景を、いつか自分も同じように写してみたい」。田島は、母と二人三脚で父の店を守ろうと決意していた。

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 特別展望台からの光景のあまりの変化に途方に暮れた田島は、持参した父の写真をみつめた。街にかかったタワーの影と、父の写真に写るタワーの影が重なっていた。「ここだ」。すると、増上寺や米国大使館など、当時から変わらず残る建物も目に入ってきた。父の見た風景、恐ろしさを忘れた父の興奮が、ファインダー越しに伝わってきた。

 「変化し続ける都会の街並みの中で、東京タワーだけは50年間、変わらぬ姿で立ち続ける」。今では、タワーは街をともに見つめ続ける家族のような存在だと思っている。

(敬称略、恒川良輔、中村亜貴)

 

 ◆庶民の夢「三種の神器」

 「もはや戦後ではない」と言われた昭和30年代。庶民の夢は、白黒テレビ、電気洗濯機、電気冷蔵庫の「三種の神器」をそろえることだった。

 内閣府によると、33年2月の三種の神器の普及率は、洗濯機が24.6%、白黒テレビは10.4%、冷蔵庫は3.2%。

 このうち、特に急激に普及したのはテレビだった。当時、大卒初任給は1万3500円で、14型テレビは約7万円だったが、34年4月に行われた皇太子さま(当時)の結婚パレードを前に、同年2月の普及率は23.6%に達した。

 小泉和子・昭和のくらし博物館館長(74)は「テレビは家族に話題を提供し、茶の間を明るくする一家だんらんの中心だった」と話す。洗濯機は家事を担う主婦の労力を軽くし、冷蔵庫は食卓を豊かにした。だんらんが消え、コンビニ弁当やインスタント食品で、家族が別々に食事する「個食」が問題視されるようになるのは、60年代以降。小泉館長は「30年代の暮らしはバランスが取れていた」と話している。

http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/tokyo23/feature/tokyo231199378046481_02/news/20080108-OYT8T00425.htm