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2008年01月03日(木) 00時00分

②「潮風から鉄塔守る」使命感読売新聞

塗装の「蒲原」、天下に示す
高さ250メートルの鉄柵に足をひっかけてぶら下がり、作業する鈴木さん。命綱はついていない(1958年撮影)=鈴木さん提供

 駿河湾に沿って細長く街が伸びる。東京から約120キロ離れた静岡県・旧蒲原町(現静岡市)。広さは15平方キロ・メートル足らず、産業といえばサクラエビ漁とミカン栽培しかないこの小さな町の人々が、東京タワーを陰で支えてきたといったら驚くだろうか。

 蒲原町は、塗装の世界ではちょっと知られた町である。明治末期以降、橋梁(きょうりょう)や鉄塔の塗装を専門とする「鋼橋塗装」の職人を数多く輩出してきたのだ。山が海に迫る地形で狭い田畑しかもたないこの町では、長男以外の男たちは、刷毛(はけ)1本を手に全国の建設現場を渡り歩くのが常だった。

 その先駆け、明治40年(1907年)創業の「磯部塗装」のことを、町史はこう刻んでいる。「東京タワーの塗装を同社がなしえたことは余りにも有名である」

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 「おれが外枠をやる。お前は一人で避雷針を塗りに行けや」

 タワーの塗装作業が最終段階に入った昭和33年(1958年)秋。地上250メートルの展望台の上で、当時32歳だった磯部塗装の現場責任者、鈴木賢治は配下の職人に挑むように言った。

 展望台の外枠部は、上部がせり出した逆台形。頭上に覆いかぶさる鉄柵に、ぶら下がって作業する形になり、垂直に立つ避雷針を塗るよりはるかに難しい。最難関のポイントだった。

 職人の大半は鈴木と同じ蒲原出身。けんかっ早いが肝の据わった蒲原職人は、責任者の度量と器量を見て仕事をする。「ここはおれがやらないと、下がついてこない」と鈴木は感じていた。

 刷毛を手に展望台の端に立つと、一歩先には空が広がり、その下にはミニチュアのような家々が見えた。冷たい風に吹かれているのに、全身からドッと汗がにじみ出る。結婚したばかりの妻は、第1子を身ごもっていた——。

現在もハケとコテを使って仕上げる。電波への影響を避けるため足場は木で組む(2007年撮影)=平岩塗装提供

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 大工の三男として生まれ、中学を卒業すると当然のように地元の磯部塗装に放り込まれた鈴木が、「世界一のタワーの塗装を請け負った」と親方から聞かされたのは、職人として脂が乗り切ったころだ。

 だが、「別にうれしくなかった」と鈴木は正直に明かす。「おれらは鳶(とび)とは違う。本当は高い所は怖いんだ」

 それでもやり遂げたのは、蒲原職人たちの負けん気の強さと結束のなせる業だったのかもしれない。「地元では近所もみんな塗装職人。『下手な仕事はできないぞ』って思いもあるからな」と鈴木は笑う。

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平岩塗装の 平岩高夫会長

 完成後のタワーを支え続けたのもまた、蒲原職人だった。潮風をまともに受ける東京タワーは、さび防止のためにほぼ5年に1度、全面的な塗り直しをしなければならない。1回目は磯部塗装が担当し、2回目以降は、やはり蒲原が創業の「平岩塗装」が一貫して請け負っている。

 現在では同社会長を務める平岩高夫(79)が忘れられないのは、東京タワー創業者の前田久吉から会うたびに聞かされた言葉だ。「鉄はサビさせてはあかんからな。大事に守ってくれ」。色を美しく保つこともさることながら、鉄骨そのものを守ること。それがおれたちの仕事だ、と平岩は言う。

 塗り直しで重要なのは、塗装の劣化した通称「死膜」を見つけることだ。死膜の上から塗ってしまうと、内部に水が入り、見えない部分でサビを進行させてしまう。スプレー式の塗装器具などは使わず、昔ながらのコテで塗膜をはがし、刷毛で丁寧に塗料を重ねる。地味で根気のいる仕事だ。

 平岩が今も「勲章」として大切に保管しているものがある。塗装工事の最終日にすべての職人に手渡された記念のメダルだ。タワーのマークと職人一人ひとりの名前が刻まれ、大きさは500円玉大。高価なものではない。だが、「タワーを守ってきた職人の誇りが詰まっている」と平岩たち蒲原職人は言う。

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 今では、蒲原で創業した塗装会社の多くが本社を東京に移し、地元出身の塗装職人は少なくなった。だが、街を歩けばあちこちで、「おれのおやじは東京タワーを塗ったんだ」といった自慢話に出くわす。

 かつて全国をまたにかけた鈴木も、今では相談役におさまり、東京へ出向くことは少なくなった。それでも、新幹線の流れる車窓に東京タワーが見えると、自然に目を細める。「どこかに自分の塗ったペンキがまだ残っているはずだ」と思って。

(敬称略、吉良敦岐)

 

 ◆「命がけ」賃金は?

 命がけで東京タワーでの高所作業に従事した職人の給料は、一体、どれくらいだったのか?

 昭和33年当時、公共職業安定所が紹介していた日雇い労働の賃金は日当306円。一方、鳶職人の平均日当は642円、塗装職人は625円(厚生労働省の資料より)だった。タワーではこの日当に上乗せがあり、鳶職人の場合、750円だったとの証言がある。

 ちなみに、この年、発売された国民車「スバル360」の価格は42万5000円。初のインスタントラーメンとして爆発的に売れた日清食品の「チキンラーメン」は1袋35円だった。

 「昭和33年」の著書のあるノンフィクション作家布施克彦さん(60)は「映画『ALWAYS三丁目の夕日』などのヒットで『あの時代は良かった』と懐かしむ人が多いが、実際にはまだ生活は苦しく、大半の家庭にとってテレビも冷蔵庫も高根の花だった」と話している。

http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/tokyo23/feature/tokyo231199378046481_02/news/20080108-OYT8T00420.htm