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2007年12月05日(水) 00時00分

テクノロジーがデザインを先導する読売新聞

 アニメーションの制作から雑誌の編集にいたるまで、デザインの分野では今やパソコンを使うことが主流になっている。その中でも、ホームページの制作会社として名高いアトムは、インターネット時代の夜明け前から、コンピューターを使う次世代のデザインを追い続けてきた。

コンピューターとチューブの絵の具

末松亜斗夢  すえまつ・あとむ
アトム代表取締役
 1957年、福岡市生まれ。専門学校・桑沢デザイン研究所卒業。デザインプロダクション、看板制作者、アスキー社を経て、1985年にアトム社を設立。88年から1年間ほど、アップル社でコンピューターによる出版システムのマーケティング担当者も務めた。
——現在の活動は

末松 ホームページのデザインが中心です。昔も今も、基本姿勢は同じ。グラフィックデザインとコンピューターが関わる領域を進む、ということです。デザインに興味を持ち始めたのは、美大を目指して浪人していたころ。受験勉強のために福岡から上京した1977年は、コンピューターがグラフィックデザインに関わり始めた時期でした。テクノロジーの進化が、ビジネスとしてのデザインを大きく変えると直観しました。

——デザイン界は大きく変わりつつあった?

末松 CI(企業イメージ確立戦略)の第一人者の中西元男さんの「DECOMAS—経営戦略としてのデザイン統合」という本が71年に出版され、デザインはビジネスであり、経営の重要な存在だと理解されるようになりました。美術界は低迷していましたが、テクノロジーの先導で「ビデオアート」「レーザーアート」「コンピューターアート」が芽を出し始めたころです。私個人は、「無から有を生み出す」コンピューターに無限の可能性を感じ、この分野に進む決心をしました。

——技術によってデザインは変わるのですね。

末松 今に限らず、美術史で言えば、チューブに絵の具が入ったことも大変革でした。それまでの絵の具は、砕いた石をにかわや卵の白身に混ぜて作っていたため、画家が絵を描く場は工房でした。その絵の具をチューブで持ち運べるようになり、手軽に野外でも絵を描けるようになりました。同じ頃に発明された写真が、写実性で絵を上回っていたことへの反発もあいまって、印象派が生まれました。コンピューターの登場で、同じような変革が来ると予感しました。

——仕事はどのように決めたのですか?

末松 専門学校を卒業後、広告のデザインプロダクションに入り、ポスター、雑誌、電車の中吊り広告などの制作に携わりました。でも自分がやりたいことからかけ離れているので、3か月でやめました。当時はニューペインティング・ブームの入り口のころで、美術界が激変し始めていました。居てもたってもいられなくなって、キース・へリングやバスキアが活躍するニューヨークに行きました。渋谷のPARCOの看板描きをやったのは、その渡航費を稼ぐためです。

——ニューヨークから戻って、アスキー社に就職しましたね

末松 PARCOの宣伝部の人から「めちゃくちゃ面白い会社がある」と聞いたのが縁で、83年に宣伝部に入りました。パソコンは大ブレークしていて、アスキーが提唱するMSXという共通規格の5万円ほどのパソコンが世に出る直前でした。

 当時のアスキーは宝の山。天才的なプログラマーや情報通の優秀な編集者がいるし、スーパーミニコンピューターやビデオの編集機、それに様々な試作器がある。パソコンならはいて捨てるほどそこらに転がっていた。あんなに面白い職場は、ほかにないですよ。

http://www.yomiuri.co.jp/net/interview/20071205nt0c.htm