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2007年10月07日(日) 14時49分

<続>子供の声は「騒音」に危機感ツカサネット新聞

昨日、『子供の声は「騒音」に危機感』という記事をツカサネット新聞に書かせていただいた。つたない記事ながらアクセスをいただいて、しかもありがたいことにコメント欄でコメントをいただき、東京都世田谷区在住のKMさんというから編集部あてにメッセージまでいただいた。

そのメッセージはこのような内容だった。(直接掲載する許可をいただいていないので、内容をおおまかにお伝えすることをお許しください)

「騒音を訴えておられた女性の側の状況について、『基準値を超える騒音値』以外に何も触れられていません。なぜ、女性が訴えるに至ったのか、判決内容に踏み込んでフォローしておく必要性を感じます」

本当に、その通りではなかったかと反省した。よって、この記事をもって、この問題がさらに社会で問われ、改善されるように願い、再考したいと思う。

まず、女性がなぜ裁判を起こすまでに至ったのか…。勉強不足の私はその経緯を知る術を知らないのだが、時事通信の記事によると女性は病気療養中だったとのこと。

朝から晩まで、かん高い子供の叫びを聞きながらの生活、さぞストレスに感じたことであろう。安静が必要な療養中ならなおさらだ。

もしも彼女が沈黙し、耐え続けていたとするなら…社会は今も、彼女の苦しみを無視して回り続けていたかもしれない。だとしたら悲しいことだ。

しかし今、女性が立ち上がったことで、多くの人々が気付き、考えている。女性が鳴らしてくれた「警鐘」が社会を成長させてくれるとしたら、それほど大きいものはない。きっと裁判を起こすことで、精神的なストレスもあったであろう。一時の感情でそこまで思い量れなかった自分の未熟さを反省する。

この問題についてある言葉を思い出した。「一人はみんなのために、みんなは一人のために」。ものすごくシンプルな言葉。でもこの問題に、決定的に欠けている事実だと思う。

女性の苦しみを考えること。子供の健やかな成長を願うこと。そこに公園と噴水を造ってくれた人たちの希望を思い知ること。

女性が裁判という形で私達に知らせてくれたものを、批判や感情論でただ責めるのではなく、咀嚼し、思いやって、裁判所の命令うんぬんではなく、自分の生活に自主的に生かすべきだったのであろう。

裁判の勝ち負けは結局、何も教えてくれないのかもしれない。ただ、裁判という社会のシステムが、学ぶきっかけになった。多くの人が暮らす「社会」に住む以上、すべてがうまくいくことなんてありえない。

何かに苦しみや憤りを感じるときこそ、その向こうにある別の憤りや苦しみについて考える。誰もが被害者や加害者になり得る騒音問題にこそ、そんな冷静さが必要だと感じた。

(記者:茶々丸)

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子供の声は「騒音」に危機感

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