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2007年09月01日(土) 07時04分

横審総意“朝青龍もう辞めてくれ”スポーツニッポン

 ついに横審もさじを投げた。横綱審議委員会(海老沢勝二委員長)の臨時会合が31日、東京・両国国技館で開かれ、モンゴルに帰国している横綱・朝青龍(26=高砂部屋)について話し合いを行った。席上、複数の委員から「引退勧告をすべき」という強硬意見が相次ぎ、石橋義夫前委員長からは「横綱に推挙したことを反省している」という異例の“懺悔(ざんげ)”も飛び出した。最終的には勧告は見送られたが、事態はついに最終局面を迎えた。

 ≪横綱に推挙したことを反省している≫ほのぼのとした雰囲気からはかけ離れていた。定例よりも長い約1時間の臨時会合。モンゴルに帰国した朝青龍の問題について協議した横審委員からは厳しい言葉が次々と噴出した。

 内館委員は「今回の一番の問題は公益法人の看板が職場放棄したということ。複数の委員から引退勧告という話が出たが、横綱の出処進退は本人が決めること」と、朝青龍に事実上の引退勧告を突きつけた。前委員長の石橋委員に至っては「横綱に推挙したことを、横審はみんなが反省している」とまで言い放った。これこそ横審委員による最後通告に他ならない。ほかにも澤村委員が「一度も謝罪の言葉がない。その点は不満ですね」と語れば、鶴田委員も「朝青龍の態度が悪すぎ」とばっさり切り捨てた。

 横審は諮問機関であるが、強硬に引退勧告を求める声が上がったという「事実」は重い。12人の意見を集約した海老沢委員長は決議などには至らず「横綱がモンゴルで治療に専念するのか、また新しい事態に発展するのか、モンゴルでの生活を見守るしかない」と、とりあえずは推移を見守る方針を示したが、委員の怒りはもはや我慢の限界の域まで達している。

 7月25日のサッカー事件発覚後、横審のメンバー12人が集まるのはこの日が初めて。21日の先代佐渡ケ嶽親方(故鎌谷紀雄さん)の葬儀では海老沢委員長がモンゴル帰国を容認したが、この日は批判の声が噴出。これは、一部委員の意見だけが表面化していた傍ら、内部では不満の声が充満していたことの表れでもある。北の湖理事長は横審の異例ともいえる会議については「今回こういうことが起きたからでしょう。こちらも意見を参考にさせてもらいます」と話しただけだった。諮問機関とは対照的に、協会トップは危機感に希薄という印象をぬぐえない。

 横審の矛先はこの日帰国した師匠の高砂親方にも向けられた。朝青龍のモンゴル帰国を了承した緊急理事会で高砂親方は「今後、自分が全責任を負う」と決意表明。監視態勢を宣言するとともに、医療状況の確認のため、朝青龍の帰国に同行した。ところが、滞在わずか35時間で早々と帰国。師匠の役割を放棄したかのような行為には横審でも疑問の声がわき上がった。船村委員は「全責任を取ると言ったのに、すぐに帰ってきたんじゃあね」と首をかしげ、内館委員も「帰ってきたこと自体が問題」と不満をもらした。

 海老沢委員長は北の湖理事長に「高砂親方をはじめとして、各部屋の師匠は指導、育成に力を注いでほしい」と要望したが、横審ではこれまで幾度となく朝青龍には厳しい言葉を投げかけてきた。その揚げ句に招いた大騒動。朝青龍がついに引退という名の崖っ縁に立たされた。

 ▼過去の勧告 横審が横綱に勧告したケースとしては、99年秋場所で横綱として史上4人目の皆勤負け越し(7勝8敗)となった若乃花がある。横審は史上初めて委員会の席に横綱を呼び出し「しっかり体を治したうえで進退をかけ、土俵に上がるように」と勧告した。若乃花は「ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。とにかく頑張ります」と謝罪し、九州と、00年初場所を休場。春場所途中で引退した。また03年12月にモンゴルに無断帰国して先代高砂親方(元小結・富士錦)の葬儀をすっぽかした朝青龍に対し、翌年1月の稽古総見で渡辺恒雄委員長(当時)が「あんまりひどいようなら引退勧告も考える」と示唆した。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070901-00000035-spn-spo