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2007年03月11日(日) 00時00分

地方議員のシゴト(中)/知事と議会朝日新聞

 「苦言を呈するわけではないのですが……」

 昨年11月、東京都内で開かれた都道府県議の交流大会。全国約550人の議員や議会事務局員を前に、パネリストとして招かれた栗原市長の佐藤勇が壇上で発言した。

 「村井県政に代わったとたんに、どうも最近の宮城県議会は元気がないような気がします」

 会場にいた宮城県議からすかさずヤジが飛んだ。「そんなことないぞーっ」。佐藤は笑いながら、続けた。「だめだ、言うべきことはきちんと言わなければ」
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 佐藤は現職の議長として臨んだ03年の県議選で落選。市長に転身した。

 所属していた自民党は当時の知事浅野史郎の「県政野党」だった。今、「浅野さんのおかげで県議会の改革が進んだ」と率直に認める。

 浅野は知事時代、県議会に相談することなく政策を打ち出すことが多かった。93年のゼネコン汚職事件で辞職した本間俊太郎の知事時代を知る県議たちは面食らった。

 副知事や部長クラスの「根回し」もなく、自分たちの意向を政策に反映させることができない。浅野の「側近」を副知事に任命するのを県議会が拒むなど、鋭く対立する場面が多くなった。

 「知事をギャフンと言わせるか納得させるために、個々の議員が勉強し、議会の場で質問して答弁を引き出す正攻法をとるようになった。結果として議員の質は高まった」。昨年3月まで議長を務めた大崎市長の伊藤康志も断言する。
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 「活発な県議会」は、議員自らが作った条例の数として表れた。

 NPO活動促進条例(98年)、ピンクチラシの根絶条例(01年)、県が長期的な計画を策定する際に議会の議決を求める条例(03年)。

 98〜05年度に県議が提案して成立した政策条例は16本にのぼる。全都道府県議会の中で最も多く、「日本一の議会」と言われた。

 「地方議会における議員立法」の著書を出した県議まで現れた。現在は衆院議員の秋葉賢也(自民)だ。「執行部に提案しても実現しない時には、条例を自分たちで作ろうという雰囲気があった」と当時を振り返る。
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 浅野は3期12年で知事を辞め、後任には自民党の県議仲間だった村井嘉浩が就いた。

 その後の県議会と知事の関係の変化について、伊藤はこう語る。「村井知事がつまずけば『県議出身の知事ではダメだ』と言われてしまう。チェックが甘くなるところはあった」。後任議長の相沢光哉は「知事と議会の意見交換は活発になり、知事と市町村の関係もよくなった」と強調する。

 一方、02、04年度に3本、03年度に2本成立していた議員提案の条例数は、05年度は1本。06年度も近く成立見通しの「ものづくり県民条例」の1本だけだ。

 民主など野党の動きも目立たない中、「もやっとした雰囲気」(県内の市長)が県政界を包む。浅野とも村井とも関係が深い佐藤は言う。「知事と議会は緊張感も連帯感もなければならない」(敬称略)

http://mytown.asahi.com/miyagi/news.php?k_id=04000000703110005