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2007年03月10日(土) 00時00分

命のビザ 杉原氏を取材した元特派員が講演朝日新聞

 第2次大戦中、ユダヤ人難民に日本通過のビザを発給した元リトアニア領事代理の杉原千畝氏に、取材で面談した経験がある元フジテレビ・モスクワ特派員の萱場(かやば)道之輔さん(72)が、敦賀市を訪れ講演した。杉原氏から直接聞いた「命のビザ」発給の経緯や人柄、当時の緊迫したヨーロッパ情勢の時代背景などを語った。(大崎敦司)

 萱場さんは73〜77年に旧ソ連のモスクワで勤務。退職後も執筆活動などを続けている。ビザを元に敦賀に上陸したユダヤ人難民は約6千人とも言われ、その足跡を調査している市民グループの招きで今月7日に市立図書館で講演した。

 萱場さんが杉原氏を取材したのは77年8月。外務省を辞めてから13年が過ぎ、杉原氏は77歳だった。当時は、日ソ間の貿易会社のモスクワ支社長を務めていた。

 初対面の印象について萱場さんは「いきがったところや気負いはなく、好々爺(こうこうや)という印象でした」と振り返った。

 取材中は、ソ連の情報機関の盗聴を防ぐためラジオ放送を流しっぱなしでインタビューした。1940年7月末から9月初めごろ、日本外務省の訓令に反して独断でビザを発給したことについて、杉原氏は「同じ立場になったら、誰でも同じことをしたのではないか」と淡々と述べたという。その後、外務省の人員整理の名目で退職を迫られたが「(訓令違反をしたのだから)それは当然じゃないのか」と話したという。

 戦時下の外交官として当時は、多数の諜報(ちょうほう)員を使って東欧情勢を情報収集するのが主な役目だった。最初は、一緒に働いていたユダヤ人の協力者4人にビザを与えて日本に脱出させた。その後、うわさを聞いて集まってきたユダヤ人に次々に発給。正規のビザ用紙がなくなると紙に手書きし、最後には自分の名刺の裏にビザ発給を求める旨を簡単に書いて手渡したと説明した。

 40年秋から翌41年春にかけては、ナチス・ドイツの迫害を逃れた大勢のユダヤ人が、リトアニアからシベリア鉄道でウラジオストクを経由して敦賀港に上陸した。その後、敦賀駅から列車で神戸へ向かい、米国などへ出国したとされる。

 萱場さんは「杉原を歴史的に偉大な人物と見るのではなく、自分と同じ血の通った人間としてとらえてほしい。日本外交には偽りが多く、問題もあったが、ビザ発給を黙認したことは評価すべきだ。ユダヤ人たちに食事や服を与えた敦賀の人たちもすごかった」などと語りかけた。

http://mytown.asahi.com/fukui/news.php?k_id=19000000703100004